第33話 蠢く石隙(せきげき)、影の捕食
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第二部:割れる石階と、呪医の血煙
レクの小屋を満たした肉の腐臭と、呪医バラムが呪詛のように唱える大地の旋律は、夜が明けてもなお建築現場の重苦しい空気として残留していた。朝の光は白く鋭く、未完成のピラミッド「第一の山」を照らし出したが、その巨大な石の塊は、もはや人々の安全を守る盾ではなく、生贄の肉を求め続ける飢えた顎のようにそびえ立っていた。
職人頭の「俺たち人間は、ただの数字じゃねえ」という言葉の残響が、クニッチ・パカルの耳の奥で、黒曜石の破片が擦れ合うような嫌な音を立てて響き続けている。パカルは神殿の床に広げたアマテの写本を見つめた。そこには整然と点と棒の記号が並んでいるが、そこから立ち上るのは、ただの無機質な石灰の塵の匂いだけだった。
「パカル様、積石の第五層、東側の傾斜面に妙な乱れがございます」
神殿の階段を駆け上がってきたのは、昨夜パカルとともに呪医の暗躍を見つめていた若き石工の助手だった。彼の顔は寝不足のせいで土色に変色し、石灰の粉と乾いた汗が、皮膚の皺に白い筋を作っている。その指先は、まるで冷たい蛇の皮膚に触れたかのように小刻みに震えていた。
「乱れとは何か。設計の目盛りから外れて石が動いたというのか」
「いえ、そうでは……文字通り、石の隙間が『蠢いて』いるのです。まるで、積まれた石の奥で、何かが息をしているかのように」
パカルは写本を巻き取り、腰布の帯に差し込むと、即座に現場へと向かった。
第一の山の中腹へ続く石階を登るにつれ、照りつける太陽の熱とは異なる、奇妙な冷気が足の裏から伝わってくるのをパカルの鋭い五感は捉えていた。周囲では、男たちが重いノミを振るい、石を削る音を響かせてはいたが、その動作は一様に硬く、互いの顔を窺うような視線の往来があった。昨夜、呪医の黒汁に狂った民衆の心理は、すでにこの強固な石の建造物の足元を泥のように浸食している。
問題の第五層、東側の壁面に到着したとき、パカルの鼻腔を突いたのは、昨夜レクの小屋で嗅いだあの生々しい肉の腐臭の、さらに凝縮された濃密な匂いだった。
巨大な石灰岩のブロックとブロックの接合部。本来ならば、一分の隙間もなく漆喰で固められているはずのその細い裂け目から、陽炎のように不気味な黒い影が揺らめき出していた。それは太陽の光が作り出す通常の影ではなかった。光そのものを吸収し、内側へ引きずり込むような、物質的な厚みを持った「闇の触手」のようだった。
「ひっ……!」
近くで石の表面を均していた農夫の一人が、短く悲鳴を上げて尻もちをついた。
パカルが目を凝らすと、その石の隙間から、まるで粘土が這い出てくるかのように、赤黒い斑点を持つ巨大な地這う虫の節足のようなものが、音もなく突き出してきた。それは長さにして大人の腕ほどもあり、表面は湿った粘液で濡れ光っている。その不気味な四肢は、周囲の空気を探るように不規則にのたうつと、石灰岩の白い表面に、じわりと赤黒い粘液の染みを残していった。
「大地の臓腑だ……山が、俺たちを食おうとしている!」
誰かの叫び声を契機に、静寂は一瞬にして破られた。農夫たちは手にした道具を投げ出し、我先にと石階を駆け下り始めた。職人頭が「戻れ!持ち場を離れるな!」と怒声を張り上げたが、一度決壊した恐怖の濁流は、もはや誰にも止められなかった。男たちは互いを突き飛ばし、石の階段を踏み外して転落しながらも、ただその「黒い隙間」から遠ざかろうと狂奔する。
パカルはその場に踏みとどまり、腰の帯から黒曜石の小刀を抜いた。
石の隙間から現れた影は、人々の恐怖を吸い上げるごとにその質量を増しているように見えた。初代クシの時代、過酷な密林の王であった「大地の蛇」や「捕食の気配」は、算術という名の檻によって支配されたはずだった。しかし、人間側が数字に対する確信を失い、呪医の狂気へ心を明け渡した瞬間、檻の格子は脆くも外れ、眠っていた神々の本能が、このピラミッドという巨大な「肉体の器」を乗っ取るようにして顕現し始めているのだ。
次の瞬間、のたうち回る黒い影の触手が、逃げ遅れて足をもつれさせていた若い石工の足首へと、鞭のようにしなやかに巻き付いた。
「助けてくれ!パカル様!職人頭!」
若者が血の凍るような絶叫を上げる。影の触手は、彼の肉体を容赦なく引きずり、石灰岩の狭い隙間へと猛烈な力で引き込み始めた。
「くそっ!」
職人頭が飛び出し、若者の両手を掴んで必死に引き戻そうとする。しかし、石の隙間から聞こえてくるのは、まるで巨大な臼が肉と骨をすり潰すかのような、「ごり、ごり」という不気味な地鳴りの音だった。石の巨躯そのものが、生き物のようにその顎を噛み合わせようとしているのだ。
パカルは前へ踏み込み、黒曜石の刃をその影の根元へと力任せに突き立てた。
刃が影に触れた瞬間、パカルの腕に伝わってきたのは、石の硬さではなく、冷たい肉を切り裂くような生々しい手応えだった。黒い隙間から、人間の悲鳴を何重にも重ねたような、精神をかき毟る高音の風鳴りが噴き出す。パカルの放った一撃によって、触手は一瞬その力を緩め、職人頭は若者の身体をかろうじて引き剥がすことに成功した。
だが、引きずり出された若者の足首は、すでに昨夜のレクの左足と同じように、黒く変色し、押し潰された肉が裂けてドロドロとした汁を滴らせていた。
石の隙間は、獲物を逃したことを惜しむかのように、さらに激しく黒い霧を噴き出し、周囲の白い石灰岩をまたたく間に煤けた黒色へと染め上げていく。
広場の底へ逃げ延びた農夫たちは、中腹で繰り広げられたその惨劇を、恐怖に引き攣った顔で見上げていた。彼らの目には、神官たちの文字がもたらした「秩序」への完全な絶望と、石の山そのものへの深い呪詛が宿っていた。
パカルは息を乱しながら、黒曜石の刃に付着した、ねっとりとした黒い粘液を見つめた。それはバラムの鉢のなかで沸き立っていた黒汁と、全く同じ色と匂いを放っていた。
密林の樹冠の向こうから、昼の太陽の光を遮るように、厚く湿った暗雲が急速に湧き上がりつつあった。それは大いなる自然が、この都市の算術を完全に圧殺しようと、巨大な手を伸ばしてくる前兆のようだった。




