第32話 沸き立つ黒汁と、肉の腐臭
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第二部:割れる石階と、呪医の血煙
未完成のピラミッド「第一の山」の隙間から染み出した赤黒い粘液は、容赦なく照りつける熱帯の太陽に灼かれ、ねっとりとした死臭を放ちながら白い石灰岩の階段を汚していた。その液体は、ただの泥水でも、あるいは地中から湧き出た油脂でもなかった。農夫たちが「押し潰されたレクの怨嗟の血」と呼び、恐れおののいたその不吉な液体の周囲には、またたく間に無数の巨大なハエが群がり、緑色の羽を激しく震わせて金属的な羽音を響かせ始めた。
建築現場の秩序は、この奇妙な一滴によって、根底から砂のように崩れようとしていた。割れた黒曜石の測定具の、ガラス質の鋭利な破片を拾い上げたクニッチ・パカルは、指先に残る石の冷たさを感じながら、眼前に広がる何百人もの男たちの顔を見つめていた。その表情には、もはや都市を築く高揚感など微塵もなかった。ただ、得体の知れない大いなる力に包囲されたという、生々しい恐怖だけが、彼らの乾いた皮膚を硬直させている。
都市の境界線が、内側からじわじわと溶解を始めていた。かつて神官たちが、精緻な算術と合理の法によって退けたはずの、泥に塗れた古い盲信が、負傷したレクの肉体の腐敗とともに、地下の暗渠から這い上がってくるかのように現場を浸食しつつあった。
その夜、集落の最果てにあるレクの粗末な茅葺き小屋の周辺は、妙に生温かく、粘り気のある湿った空気に包まれていた。夜気が密林の深部から運んでくるのは、腐りかけたイチジクの甘い匂いと、大地の底から湧き上がるような土の匂いだった。闇の帳が下りるにつれ、どこからともなく這い出してきた民衆が、足音を殺してその小屋の周囲を取り囲んでいく。彼らの手には、神殿の儀式で使われるような清浄な松明の赤黄色の炎はなく、代わりに向こう側の闇で摘まれた、不気味なくすぶりを見せる薬草の束が握られていた。その煙は、人々の顔を青白く不気味に照らし、目に沁みるような苦い悪臭を周囲に撒き散らす。
小屋の内部では、粘土を固めた冷たい床に横たえられたレクが、もはや人間のものではない、獣のそれによく似た低い呻き声を上げ続けていた。彼の左足は、職人頭が応急処置として腰布で引き千切り、肉に食い込むほどきつく縛り上げた太ももの先から、完全に生気を失っていた。紫黒色に変色した皮膚の表面には、濁った液体を孕んだ巨大な水膨れがいくつも浮かび上がり、それが熱帯の容赦ない湿気によって弾けるたび、ドロドロとした黒い汁が噴き出していた。石に押し潰され、細胞の隅々まで破壊された肉は、生きながらにして完全に壊死し、急速に腐敗の度合いを深めていた。狭い小屋の空間を完全に支配しているのは、脳を麻痺させるほどの強烈な肉の腐臭と、その匂いを嗅ぎつけて暗闇から押し寄せてきた無数の吸血虫の、執拗な羽音の合唱だった。それは生と死の境界が、肉体の上で完全に失われたことを告げる響きだった。
「見よ。数の神官どもは、この男の命をただの目盛りとして消費したのだ」
レクの枕元、影が最も濃く澱む場所に屈み込み、呪詛のように低い声で語りかける影があった。かつて一族の長たちが、算術の秩序を守るために密林の奥深くへと追放したはずの、泥の呪医の残党、バラムであった。彼の顔面には、野生の果実の汁と木炭の粉を混ぜ合わせたものであろう、歪な黒い幾何学紋様が施されており、その奥でぎらぎらと光る瞳には、神官たちがもたらした「文字」と「計算」に対する、何世代にもわたって蓄積された深い怨恨が宿っていた。
バラムは、素焼きのひび割れた鉢のなかで、湿った密林の底から掘り起こしてきた怪しげな植物の根と、粘土質の泥からにじみ出た黒い沼水を混ぜ合わせ、粗削りの木の棒でせわしなくすり潰していた。鉢のなかで「ぐつ、ぐつ」と、生き物の臓腑が蠢くような音を立てて沸き立つ黒汁は、大地の底に眠る毒そのもののようだった。バラムはそのねっとりとした液体を、鳥の骨で作られた平らなへらですくい上げると、レクの黒く腫れ上がり、脈打つ傷口へと容赦なく塗りつけていった。
「熱い!うあああああっ!燃える、大地の蛇が、俺の腹を食い破る!」
レクの頑強だった身体が、激痛によって弓なりに反り上がり、大人の男三人がかりで両腕と胸を抑えつけているにもかかわらず、それを撥ね退けんばかりの狂乱の力がその四肢にみなぎった。彼の皮膚の至る所から、日々の過酷な労働によって引き裂かれていた細かな傷口が再び開き、そこから赤黒い血が滲み出て、バラムの塗った黒汁と混ざり合いながら、床の乾燥した泥へとじわりと滴り落ちていく。
小屋の外で息を潜め、壁の隙間からその様子を窺っていた民衆の間に、肌を粟立たせるような戦慄が走った。彼らにとって、目の前で繰り広げられるレクの苦悶は、決して他人事ではなかった。明日、あるいは次の新月の夜、あの巨大な石の山の容赦ない自重の前に、自らの肉体を砕かれ、同じように腐り果てていくのは自分たちかもしれないという、生々しく、かつ根源的な生存の恐怖が、彼らの胸の奥で眠っていた理性をじわじわと麻痺させていく。
「パカル様、あれを見てくだされ。これが俺たちの現実だ」
暗闇の中から、パカルの隣に音もなく這い寄るように現れたのは、昼間の激務の疲弊を全身に滲ませた職人頭だった。彼の逞しい顔は、低くくすぶる薬草の炎の逆光の中で、まるで削り出された石像のように深い影を落としていた。その声には、神官たちへの怒りとも、自分たちの無力さへの諦めともつかぬ、重い戦慄が混じっていた。
「男たちが、あの呪医の持ってきた黒汁を、神聖な大地の血として崇め始めておる。奴らは影で囁き合っているのだ。神官たちの文字は俺たちを飢えから救う盾などではなく、大地の神々の眠りを妨げ、怒りを買うための呪いの印だと。レクの足から吹き出たあの黒い汁こそが、大地が求めている真の対価であり、それを受け入れることだけが、俺たちが生き延びる道なのだと……」
パカルは、手にしたアマテの写本を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。硬い樹皮を叩いて作られたその書物の表面には、これまでに費やされた無数の労働力、切り出された石材の総数、そして彼らを維持するために消費されたトウモロコシの正確な分量が、一画の狂いもなく記録されている。それは確かに、集落を維持するための最高の理性であった。だが、この写本には、目の前で腐り果て、肉の塊へと還っていく一人の農夫の皮膚の熱さも、それを取り囲む家族の、言葉にならない絶望の涙も、決して書き写すことはできない。数字が精緻に、そして冷酷になればなるほど、人々の生きる実感はその網目から零れ落ち、皮肉にも呪医がもたらす泥の狂気、かつて一族が脱したはずの盲目的で原始的な信仰へと、磁石に引き寄せられるように回帰していくのだ。
「職人頭よ。呪医の黒汁は病を治しはしない。あれは肉をさらに腐らせ、人間の理性を狂わせるただの毒だ。それは数代前の記録にも明記されている。文字を、そしてこれまでの歩みを信じるのだ」
「そんなことは百も承知だ、パカル様!」
職人頭は、押し殺した、しかし引き裂くような激しい口調でパカルの言葉を遮った。彼の掌は、何ヶ月も丸太のローラーを回し続け、重い石の端を支え続けたことで皮膚が幾度も裂け、いまや硬い角質のタコとなって強張っている。その節くれ立った手が、暗闇の中で怒りに震えていた。
「だがな、パカル様。いまの俺たちに必要なのは、あんたたちの言う『正しい記録』や『遠い過去の理屈』じゃねえんだ!
石の怪物の前でいつ潰されるかも分からず震えている、この生身の心を、誰が、どうやって救ってくれるのかっていう、その一点の叫びなんだよ!
あんたたちの数式は、レクの夜通しの絶叫を消しちゃくれない。だが、あの呪医の毒のほうが、まだ奴らに『神々と肉体で繋がっている』という、泥のような偽りの安らぎを与えてやがるんだ。俺たち人間は、ただの数字じゃねえ!」
小屋の内部では、バラムが沸き立つ黒汁をさらにレクの露出した胸元へと注ぎ込み、大地の底に潜む蛇の神々の名を、歌うような抑揚をつけて大声で唱え始めていた。その不気味な旋律に呼応するように、小屋を取り囲む民衆の足元から、地響きのような唸り声が上がり、彼らは一斉に湿った泥を踏み鳴らし始めた。その規則的な振動は、写本官たちが刻む時間の刻みとは異なる、大地の不穏な鼓動そのものだった。
パカルの鋭い五感は、密林の奥深くから漂ってくる、生温かく湿った夜風の異変を敏感に察知していた。それは単なる気候のゆらぎではない。人々の間に広がる狂気と、理性の崩壊によって生じた心の隙間を餌にして、ジャングルの深淵に潜む本能的な「神々の気配」が、再びこの都市の境界線を物質的に侵食しようと、音もなく黒い触手を伸ばしてきているのだ。
西の地平線、漆黒の木々の梢の隙間に、沈みかけた金星の凍てつく光が、冷酷な獣の眼差しのように差し込んでいた。その白い光が、レクの足元で沸き立つ黒汁の表面をギラリと不気味に反射させた瞬間、パカルの胸の奥で、これまで信じて疑わなかった算術の盾に、目に見えない巨大な亀裂が走り始めていた。




