第31話 割れる目盛り、肉の軋み
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第二部:割れる石階と、呪医の血煙
夜明けの光が、未完成のピラミッド「第一の山」の冷徹な稜線を白く染め上げる頃、建築現場の底流には、熱を帯びた泥のような不穏な空気が澱んでいた。石灰岩を削る鉄色のノミの音も、巨石を運ぶ丸太の軋みも、どこか引き裂かれた肉が上げる悲鳴の残響を孕んでいるようだった。
数日前、石灰岩の巨大なブロックが傾き、若い農夫レクの左足を容赦なく押し潰した。あの生々しい肉の潰れる音と、白い石灰の粉を赤黒く染めた鮮血の記憶は、現場で働く男たちの網膜にこびりついて離れない。職人頭が腰布を引き千切って太ももを縛り上げ、かろうじて命だけは繋ぎ止めたものの、レクの左足は膝から下が完全に肉の塊へと変わり果てていた。
若き写本官クニッチ・パカルは、神殿の高床からその痛ましい光景の「結果」を、白いアマテの樹皮へと書き写さねばならなかった。
「動員可能なる肉体、一の減。残る作業能力、目盛りの狂い、点の一」
ウサギの骨の筆が、乾いた漆喰の表面を滑るたび、クニッチの胸には割り切れない不快感が付きまとった。初代クシが泥に刻んだ数字は、過酷な自然から人間の命を守るための盾であったはずだ。しかし、いま彼が刻んでいる数字は、生きている人間をただの損失の目盛りへと還元する、冷酷な管理の道具になり下がっているのではないか。
部屋の隅では、老神官マホクヌームが濁った目を閉じたまま、微動だにせず座っている。彼の衣服からは、夜通し焚かれていたコパルの樹脂の、ねっとりとした甘く重い匂いが染み出していた。それは神聖な香煙であると同時に、老人の肉体が放つ死臭を覆い隠すための覆いでもあった。
「パカルよ、筆の音が鈍いな」
マホクヌームの涸れた声が、室内の重苦しい沈黙を破った。
「石の山は、一人の農夫の足が止まった程度で、その歩みを緩めることは許されん。次の新月までに、さらに二層の石階を積み上げねば、金星の運行がもたらす『大いなる渇き』の帳尻が合わなくなる。数が狂えば、都市のすべての畑が砂に還るのだぞ」
「分かっております、マホクヌーム。ですが、現場の男たちの間に漂うのは、単なる疲労ではありません。レクの傷口から這い出た不吉な羽音が、石の影に潜んで彼らの耳元で囁いているのです。彼らは、これまで信じてきた大いなる秩序そのものに、怯え始めています」
クニッチが指摘した通り、都市の空気は確実に変質しつつあった。
レクの足が潰れた翌夜から、建築現場の周囲では、かつて一族が追放したはずの「泥の呪医」の残党たちが、夜陰に紛れて怪しげな薬草を燻らせるようになった。彼らは、神官たちが進める巨大建築を「神々の怒りを買う傲慢の軛」と呼び、失われた古い盲信を民衆の耳に吹き込んでいたのだ。
レクの家からは、昼夜を問わず、赤ん坊の泣き声と、傷口の激痛に狂うレク自身の獣じみた絶叫が響いていた。職人頭がいくら励まそうとも、腐敗し始めた肉の悪臭は周囲の住居へと漂い、人々の精神をじわじわと蝕んでいく。
石灰の塵が舞う広場では、男たちが黙々と作業を続けてはいたが、その視線は以前のように「この石を積めば必ず救われる」という揺るぎない確信を失っていた。彼らの眼差しは昏く濁り、まるで得体の知れない巨大な罠に囚われたかのような、深い怯えと不信が混じり合っている。
クニッチは神殿を降り、自らの足で現場へと向かった。
すれ違う農夫たちの皮膚は、過酷な労働と不十分な睡眠によって、石灰の粉を被ったように白く乾ききっている。彼らの目は、巨大な石の怪物に魂をすり減らされたかのように、生気を失っていた。
「パカル様」
声をかけてきたのは、レクの足を縛り上げた職人頭の男だった。彼の顔は煤と汗で黒く汚れ、その逞しい両腕は、石を引きずり続けたことで細かな傷に覆われていた。
「レクの傷が……いよいよ不味い。呪医の持ってきた苦い薬草の汁を傷口に塗ったが、熱は下がるどころか、体中が燃えるように熱くなり、いまや意味の通じぬ言葉を叫び続けている。まるで、石の山に肉体を吸い取られているようだ、と奴らは噂し合っている」
「職人頭よ、私たちは命を吸い取るために石を積んでいるのではない。最悪の破滅を避けるための、唯一の境界線を築いているのだ」
クニッチは努めて冷静に答えたが、その言葉は彼自身の喉を焼くように虚しく響いた。
「だがな、パカル様。あんたたちの言う『正しい境界』とやらは、俺たちの腹を満たしちゃくれない。レクの足が一本消えた。それはお前たちの書物にとっちゃ、ただの書き換えられる数字の一に過ぎないだろうが、あいつの家族にとっちゃ、世界のすべてがへし折られたのと同じだ。男たちはな、次の石が誰の上に落ちてくるかを恐れながら、震える手でノミを振るっているんだぞ」
その時、未完成のピラミッドの頂上付近から、乾いた叫び声が上がった。
「影だ!石の隙間から、何かが這い出してくる!」
叫び込んだのは、石階の水平を測っていた若い石工だった。彼の手から、高価な黒曜石の測定具が滑り落ち、白い石灰岩の階段を激しく跳ねながら真っ二つに割れた。
すべての作業がピタリと止まった。何百人もの視線が、一斉にピラミッドの白い中腹へと注がれる。
ぎらぎらと照りつける太陽の光のなかで、新しく積み上げられた石の隙間から、赤黒い粘液のようなものが、じわりと染み出しているのが見えた。それはまるで、押し潰されたレクの足から流れた血が、石の巨躯の内部を通って、いまになって大地の皮膚へと湧き出してきたかのような錯覚を抱かせた。
「神々が、対価の不足を訴えている……」
民衆のなかから、誰とも知れぬ呟きが漏れた。それは急速に伝染し、広場全体を震わせる低い呪詛の波へと変わっていく。
「いくら石を積んでも、俺たちは救われない。石の怪物が、もっと肉を、もっと血を寄こせと吠えているんだ!」
クニッチは、割れた黒曜石の破片を拾い上げ、その鋭利な断面を見つめた。
初代クシが刻んだ文字の盾は、肥大化した都市の重みに耐えかねて、内側から爆発しようとしている。これまでに築き上げてきた堅固な秩序が、民衆の底に眠る狂気と、過酷な密林が放つ霊的な威圧感によって、いままさにねじ切られようとしていた。
クニッチの脳裏に、老マホクヌームの言葉が蘇る。――「神々は微笑まぬ。彼らはただ、対価を求めるだけだ」。
だが、その対価の重みが、人間の肉体と心の限界を超えて跳ね上がった時、写本官として何を書き記せばよいのだろうか。
西の空には、まだ昼間だというのに、凍てつくような金星の気配が、薄く白い牙のように潜んでいるのを、クニッチの鋭い視覚は確かに捉えていた。




