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トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い(紀元前900年頃)

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第36話 血塗られた石階の均衡

第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い

第二部:割れる石階と、呪医の血煙

職人頭の胸から噴き出た鮮血は、冷たい漆喰の床に広がると、またたく間に神殿の階段の縁へと伝い、白い石灰岩を赤黒く染め上げながら滴り落ちていった。夜の密林から吹き付ける湿った強風が、その生々しい血の匂いを四方へと拡散させる。松明の赤黒い炎に照らされた民衆の目は、仲間であったはずの男の血を見た瞬間、一瞬の恐れを超えて、完全に理性のタガを外した狂乱の光へと変質した。


「見たか!大地の神々は今、一族の最も頑強な男の命を受け取られたのだ!」


呪医バラムは、血に濡れた鋭利な石灰岩の破片を天へと突き上げ、歓喜に震える声を張り上げた。彼の顔に描かれた幾何学紋様が、汗と飛び散った職人頭の血で歪に滲んでいる。

「これこそが、白い石の山に閉じ込められた神々が求めていた真の和解である。写本官パカルよ、次はお前とその不吉な書物の番だ。それをこの狂乱の炎へ投じ、灰を石の隙間に詰めねば、大地の蛇は今夜お前たちすべての肉体を食い破るであろう!」


バラムの背後にひしめく男たちが、獣じみた咆哮を上げながら、一斉に神殿の最上層へと押し寄せてきた。彼らの手にするノミや槌は、もはや神殿を築くための道具ではなく、自らを縛る法を打ち砕くための凶器となっていた。熱気と、燻る薬草の苦い悪臭、そして床に澱む血の匂いが混ざり合い、神殿の広場は息が詰まるほどの濃密な狂気に支配されていた。


クニッチ・パカルは、左腕にアマテの写本を抱えたまま、一歩も退かずに踏みとどまっていた。彼の指先は、胸元を切り裂かれて倒れた職人頭の死体を前にして激しく震えていたが、その瞳だけは、神殿の奥の暗がりに佇む老神官マホクヌームと同じ、静かな冷徹さを取り戻しつつあった。

ここで怯えて書物を手放せば、初代クシが泥に刻み、何世代にもわたって守られてきた人間の領域は、一晩にして密林の混沌へと貪り尽くされる。それは、ただ飢えと恐怖に怯える原始の家畜へと退行することを意味していた。パカルは右手に握った黒曜石の小刀の柄を、自らの手のひらの皮膚が擦り切れるほどの力で握りしめた。


「狂人に言葉は届かぬ、パカルよ」


マホクヌームが、幾重にも重ねられた木綿の衣服の衣擦れの音を響かせ、パカルの背後から音もなく歩み出てきた。老人の濁った眼窩の奥には、迫り来る炎の波を冷たく見据える、底知れない一族の記憶が宿っていた。

「奴らは、石の怪物が肉を喰らう恐怖から逃れたい一心で、自らの手で秩序を殺そうとしている。だが、一度流された血は、もはや戻らぬ。あの職人頭の命は、この建造物の水平を保つための、最も重い代償として大地に支払われた。我々がすべきは、その結果を、この命が尽きるまで守り抜くことだけだ」


「マホクヌーム……」


パカルが声を絞り出した瞬間、バラムが松明を大きく振りかざし、パカルの左腕にある写本を目がけて飛びかかってきた。赤黒い炎の塊が、顔面を焦がさんばかりの熱線となってパカルの視界を覆う。

パカルの鋭い五感は、その瞬間の時間の流れを、恐ろしいほど精緻に捉えていた。バラムの皮膚から放たれる発酵した酒の匂い、松明の先端で爆ぜる樹脂の爆音、そして、ピラミッドの第五層の隙間から、昼間よりもさらに激しく「ごり、ごり」と不気味な鳴動を上げて染み出し始めた、あの黒い粘液の波。


パカルは身を翻すと同時に、右手の黒曜石の小刀を、バラムの突き出された右腕の肉へと、斜め下方から深く突き立てた。

「づ、つ」と、肉の繊維が両断される生々しい手応えが、パカルの腕を通じて脳髄へと突き抜ける。バラムの口から、先ほどの狂乱の叫びとは異なる、短く鋭い悲鳴が漏れた。彼の手から狂乱の松明が滑り落ち、漆喰の床の上を転がって、職人頭の流した血の海の中へとジュッと音を立てて落ちた。炎は赤黒い煤煙を上げながら、血の油分を吸って一時的に激しく燃え上がった。


「呪医よ、お前の言う『大地の声』とは、ただ人々の恐怖を貪る密林の飢えに過ぎない」


パカルはバラムの腕から黒曜石の刃を引き抜き、漆黒の刃先に付着した血を床へと払った。バラムは傷口を押さえ、苦悶に顔を歪めながら数歩後退したが、その瞳に宿る怨恨はさらに深く燃え盛っていた。

「お前たちが文字を焼き、石の山を崩したところで、明日の朝陽が昇る保証はどこにある。次の乾期に、畑が砂に変わるのを、お前の薬草の汁が止められるとでも言うのか。私たちは、ただ怯えて死を待つ家畜であることを拒むために、この白い石を積み上げているのだ!」


パカルのその叫びは、背後の階段で身を硬直させていた民衆の胸の奥へと、一本の鋭い楔となって突き刺さった。彼らは、床に倒れた職人頭の無残な姿と、パカルの持つ黒曜石の刃から滴る血、そして、バラムの腕から流れる同じ赤い血を交互に見つめていた。呪医の血もまた、自分たちと同じ、ただの赤い生身の液体に過ぎないという厳然たる事実が、彼らの狂った頭脳を冷ややかに覚醒させ始めていた。


その時、天蓋の暗雲が不気味に渦巻き、耳を破るような激しい雷鳴が都市全体を震わせた。

――バリ、バリ、バリ、ズドォン!

激しい閃光が、未完成のピラミッドの稜線を白一色に浮かび上がらせた。次の瞬間、バケツをひっくり返したような猛烈な豪雨が、密林の夜を完全に塗りつぶした。

凄まじい雨の弾丸が、神殿の広場に吹き込み、民衆が掲げていた何百本もの狂乱の松明を、一瞬にして容赦なく掻き消していった。世界は、閃光の合間に訪れる、漆黒の闇と激しい水の音だけへと還元された。


大粒の雨は、漆喰の床に広がっていた職人頭の血も、バラムの腕から流れた血も、すべてを等しく洗い流し、第一の山の階段を伝って下層へと押し流していく。

闇のなかで、民衆の叫び声は次第に小さくなり、代わりに聞こえてきたのは、冷たい雨に打たれながら己の過ちに気づいた男たちの、歯の根も合わぬほどの震えと、低いすすり泣きの声だった。バラムもまた、激しい雨のなかに姿を消し、その気配は密林の闇の底へと紛れていった。


パカルは、激しい雨に打たれながらも、自らの身体でアマテの写本を覆い隠し、一滴の水もその表面に触れさせぬよう護り抜いていた。

水を含んだピラミッドの石灰岩が、静かに、しかし確実にその重量を増していく音が大地の底から響いてくる。水平は、職人頭の流した血という、この地における最も重い生贄の対価と、写本官の執念によって、かろうじて保たれていた。それは、算術という名の理性が、民衆の狂気と大地の威圧感の前に、辛うじて踏みとどまった「凄惨なる均衡」の瞬間であった。


パカルは雨の壁の向こうに、まだ薄白く潜む金星の冷酷な気配を感じながら、次の夜明けに向けて、新たな点と棒の文字を樹皮に刻み付ける覚悟を、その胸の奥深くに白く焼き付けていた。

(第2章・第二部:『割れる石階と、呪医の血煙』完)

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