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社会を滑らかに動かしているのは、真理ではなく、「建前」という名の摩擦低減剤だ。
中庭の古い桜の木の下から、千紗に手を引かれて、私たちは本館三階にある数理科学科の教授室へと向かった。
先ほど講義を強制終了させた「バグ」の処理。それが、この呼び出しの目的であることを、私のプロセッサは正確に演算していた。
重い木製のドアを千紗がノックする。中から聞こえた「入りなさい」というかすれた声に応じて、私たちは部屋に足を踏み入れた。教授はデスクの向かいに並んだ二脚の安価な丸椅子を無造作に指さし、座るよう促した。促されるままに私たちが腰を下ろすと、教授との間に、傷だらけのスチール製デスクが物理的な境界線として介在した。
教授室の空気は、古い書物のインクと、埃の匂いに満ちていた。
壁一面の本棚には、数論や幾何学の専門書が乱雑に押し込まれ、床には何年度のものかもわからない論文の束が、不均等なタワーを形成して積まれている。
そして、白髪の教授が座るデスクの上。そこには、いつ淹れられたのかわからない一杯のコーヒーカップが置かれていた。
完全に冷めきり、表面には薄い膜が張っている。その濁った褐色の液体は、まるで動きを止めて硬直した、不活性なシステムの縮図のようだった。
「――茅野さん。君の数学に対する熱意と、理解の深さは認めている」
教授は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷めたコーヒーには目もくれずに、私たちを見上げた。
「しかしね、講義には全体のペースというものがある。あの補題は、このクラスの学生が『大まかな流れ』を掴むためのステップに過ぎないんだ。そこで厳密な前提条件や特異点の話を持ち出されては、授業が前に進まない。少しは全体の協調性というものを考えてもらわんと困るよ」
協調性。全体のペース。
教授の口から出力された言葉は、どれも抽象的で、定義が不明瞭なパラメータばかりだった。
「先生、本当に申し訳ありません」
私が口を開くより早く、千紗が頭を下げた。
彼女の声は、教授室の硬い空気をふんわりと包み込むように、適度な水分を含んで響く。
「英里菜は、ちょっと数学に対して真面目すぎるところがあって……悪気は本当にないんです。数式を見ると、つい深く入り込んで周りが見えなくなっちゃうみたいで。これからは私も横でちゃんとサポートしますので、どうか大目に見ていただけないでしょうか」
千紗は、教授のプライドを傷つけない「ファジーな言葉」を的確に選択し、その場の摩擦係数をゼロに近づけていく。
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