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社会の大部分は、厳密な定義を省略した「だいたい」という名のバグで動作している。
四月中旬。午前十時の講義室は、春のぬるい空気と、数十人の学生たちの退屈な呼吸で満たされていた。
階段状に並ぶ長机。私の斜め前に座る女子学生は、ノートを開くこともせず、手元のスマートフォンの画面をじっと見つめている。
液晶画面のなかで、チャットアプリのメッセージ通知がひっきりなしに明滅していた。
「今どこ?」「昨日のは怒ってる?」
ポップアップが現れては消え、また現れる。そのすべてが、相手に既読スルーされていることを示す冷たい沈黙を伴っていた。返信のない不均衡なコミュニケーションの連鎖が、画面の上で醜い非対称なログを積み上げていく。
なぜ、彼女はあんな不完全で不安定な接続に自分の情緒を委ねて平気でいられるのだろう。見ているだけで、私の脳のワーキングメモリに無駄なパケットが蓄積され、処理速度が低下していくのを感じた。
私は視線を強制的に前方――教壇のブラックボードへと戻した。
白髪の教授が、古びたチョークで数式を描いている。だが、その右手が不意に動きを止めた。
「――この補題が成り立つことは、まあ、直感的に明らかであるから、証明は省略して次に進む」
教授はそう言って、チョークの粉を払い、次の定理の説明に入ろうとした。
その瞬間、私の頭の中で、警告音が鳴り響いた。
「待ってください」
気がついたときには、椅子が後ろに引かれ、私は立ち上がっていた。
講義室のぬるい空気が、一瞬で凍りついたのがわかった。何十もの視線が、一斉に私に向かって物理的な圧力となって収束してくる。
「何かな、茅野さん」
教授が怪訝そうに眉をひそめる。
「先ほどの補題ですが、定義が不足しています。変数における局所的な連続性が仮定されていません。その条件が抜け落ちた状態で『直感的に明らか』として進めるのは、論理の致命的な欠損です。例外的な特異点が存在する場合、その定理は容易に崩壊します」
私は一息にまくし立てた。
教授の顔から、わずかに余裕が消えた。
「ああ、それは、この講義のレベルにおいては自明の前提として――」
「前提とするならば、まずその定義域を明示的に記述するべきです。曖昧な『直感』をシステムの基底に置くことは、エラーを無視してコンパイルを通すようなものです」
周囲から、小さく、けれど鋭い囁き声が漏れ聞こえ始めた。
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