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彼女は私の横にしゃがみ込むと、何も言わずに、私の前に一つのマグカップを差し出した。
「はい、お薬。それから、こっちも」
湯気とともに立ち上ったのは、暴力的なまでに甘いチョコレートの香りと、ほんの少しのミルクの匂い。
それは、千紗が私のために作った、限界濃度まで砂糖を溶かし込んだ特製のココアだった。
隣に置かれたお皿には、ずっしりと密度の高い、手作りのベイクドチーズケーキ。
「……甘すぎる。融点を超えてるわ」
掠れた声で抗議しながらも、私は両手でマグカップを包み込んだ。
温かい陶器の熱が、冷え切った指先の毛細血管を拡張していく。一口、口に含む。
喉を焼くような濃厚な甘みと重厚な糖分が、消化器官を通じて、私の干からびた脳幹へダイレクトに供給されていくのがわかった。震えていた指先が、ゆっくりと物理的な制御を取り戻していく。
「英里菜の脳は、普通の人よりガソリンの消費が早すぎるの。だから私がちゃんと見ててあげないと、すぐにエンストしちゃうでしょ?」
千紗は、研究室の丸椅子に腰掛け、自分のマグカップを両手で持ちながら小さく笑った。
彼女のぼやけた輪郭と、甘いココアの熱。それだけが、私の暴走するシステムを安全にシャットダウンし、再起動させてくれる物理的なバッファだった。
「このココアのマグカップがある限り、私の糖分メーターは管理される、ということ?」
「そうだよ。英里菜が壊れそうになったら、いつでも私が甘いバッファを持って現れる。これは約束」
千紗はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
私はチーズケーキを小さくフォークで切り分け、口に運ぶ。濃厚なチーズの酸味と、クッキー生地の塩気が、ココアの甘さに中和されて、私の脳を確実に「通常動作領域」へと引き戻していく。
熱いマグカップを握りしめたまま、ようやく人心地がついた私に、千紗は手元のスマートフォンをちらりと見せながら、困ったように眉を下げた。
「ところで、英里菜。この美味しいバッファで脳が冷えたなら、現実のタスクも片付けちゃおうか」
「現実のタスク?」
「そう、現実。……今年度の履修登録の締め切り、あと四時間なんだけど。まさか、まだ送信ボタン押してないなんて言わないよね?」
「……あ」
私はホワイトボードの数式を見上げた。
論理世界の完全なる対称性に没頭するあまり、現実世界の最も非論理的で面倒な手続きを、私の脳は「処理優先度・最下位」として完全にメモリから消去していたのだった。
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