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午前三時の大学研究室は、私にとって唯一の「無菌室」だった。
すべての講義が終わり、学生も教員も去った数理科学科の共同研究室。遮光カーテンが外界の光害を遮り、蛍光灯のわずかなうなり音だけが、等間隔の白色雑音として室内に満ちている。
この静寂の中で、私はホワイトボードに向かい、狂ったようにチョークを走らせていた。
「コツ、コツ、コツ、コツ――」
乾いた硬質な音が、規則正しいテンポで闇に溶けていく。
白いボードの上に、非線形最適化問題の数式が網の目のように広がっていく。制約条件を満たす多次元空間上の曲面、最適値へと収束していく勾配ベクトル。
私の脳が受信し続ける、外界の不規則で汚い生データ――ゲオスミンの異臭、点字ブロックの不快な凸凹、踏切の不快な高周波ノイズ――。それらのゴミのような入力情報を、私はこの美しい論理の網で捕獲し、純粋な幾何学へと変換していく。
数式を解いているのではない。私は、過熱したプロセッサを「論理のループ」によって冷却しているのだ。
ふと、チョークを握る手を止め、視線を窓の外にやる。
三階の窓から見下ろす駐輪場。暗闇のなか、風に揺られた一台の古い自転車が、視界の端で頼りなく自己主張していた。
泥除けに固定された赤い反射板が、敷地外の街灯の光を拾って、不規則に、けれどどこか寂しげに明滅している。
その光の周期を、私の脳は無意識に計測し、数列に変換しようとする。だめだ。計算を止めてはいけない。余計なノイズを思考に入り込ませれば、また脳内がオーバーフローを起こしてしまう。
再びホワイトボードに向き直り、右手を動かそうとした。
けれど、指先が不自然に震え、白チョークが滑り落ちて床で乾いた音を立てて砕けた。
「あ――」
視界の端が、急速にブラックアウトしていく。
こめかみの奥で、脈拍と同調した鈍い頭痛がスパークした。
脳というプロセッサを高クロックで回しすぎた代償。私の身体の「糖分メーター」が、ついに限界値を下回り、デッドラインを割り込んだのだ。
低血糖による軽い脱力と眩暈。膝の力が抜け、ホワイトボードに額を押し当てるようにして、私はその場にへたり込みそうになった。
そのとき、背後のドアが静かに開き、かすかな衣擦れの音がした。
「やっぱり、ここにいた」
防音室の二重扉を通り抜けてきたような、低く柔らかな声。千紗だった。
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