巣籠もり
番の蜜月とは番同士がより深く互いの理解と絆を深めていくための大切な時間。その期間は番によって異なるが、平均的には一ヶ月から三ヶ月程となる。
蜜月の間は一日の大半を番と睦み合う時間に費やすため、衣食住が疎かとなってしまう。中には飢えや渇きで体調を崩したり、生活基盤が不安定となってしまうケースが出てしまうほどだ。
そんな番の蜜月を迎えたキラとディーだが、衣食住の心配は全くの不要だ。主人とその番が穏やかな蜜月の期間を過ごせるようにと、城の使用人が裏方として動いているのだから。
「……今更だけど、恥ずかしい……」
「? 何がだ?」
ベッドに横たわりディーの腕の中で何故か顔を隠しているキラにディーが首を傾げている。
「だ、だって……。私とディーが部屋に籠って蜜月を過ごしているってお城の皆に知られているんでしょ?」
「まぁ、そうだな」
「私達がお風呂に入ったりしている間にサイラスやシシーが出入りして、その……、私達が寝た後のベッドを整えてくれたりしていたんでしょ?」
「そうだな」
「…………恥ずかしいぃ……ッ!」
ディーは顔を真っ赤にさせて自分の腕の中へと深く埋もれていくキラにクスクスと笑った。
「確かに今更だなぁ。それが連中の仕事なんだからキラは気にするな。お前は俺だけを見てくれ」
「うぅ……っ! ディーは全く気にしていないのっ?」
キッと上目遣いで問われたディーは、キラの潤んだ瞳にグッと息を詰まらせた。
「ったく、俺のキラは俺を無意識に煽るのが上手いなぁ。俺がいちいち気にするわけがないだろう。俺はこの城の城主だぞ?」
「これだから無敵の夜鴉公はっ!」
「むしろ連中は安心しているんじゃないか? 主である俺がお前という番を得て蜜月を過ごしていることにな。食事にだって精のつく食材が積極的に使われているし」
「え」
動きがピシッと固まったキラにすかさず口付けをするディー。
「キラもぐちゃぐちゃにしたベッドと衣類を連中に見せつけて、俺に思う存分マーキングされた自分を自慢してやるくらいの気持ちでいればいいのさ」
「無理っ! 恥ずかしくて無理ぃッ!」
「そんなことを言ったって、すでに散々した後だろうが。発情して俺を強く求めて乱れるキラも可愛いが、正気に戻って慌てふためくキラも可愛いなぁ」
「もうやだぁっ。シシー達とどんな顔して会えばいいのかわからないよぅ……!」
八つ当たりのように額をディーの胸板にグリグリと押し当ててくるキラが愛おしくて、ディーの意地悪な笑みは止まることを知らない。
「外野の視線なんて考えるな。俺だけを見て、俺だけを求めてくれ。俺もそうするから」
「俺もそうするって……、ディーは最初からそうしてるでしょっ!」
「そりゃあそうだ。だって俺はここの城主で、お前の番なんだからな」
「もうっ!」
夜鴉公として遥か昔から君臨してきたディーに対して、キラはフリューゲル城での暮らしにようやく慣れてきたというタイミングだった。故にどうしても人の目を気にしてしまうというか、何というか……。
――蜜月を過ごしてきたキラがこうして我に返って部屋の外を意識し始めたのは、番の縁を結んだことによる衝動のピークが過ぎて心身が安定した証拠でもある。
それはつまり――、この濃厚な蜜月がそろそろ終わるという意味だ。
蜜月が終わるといっても互いを求める衝動がパタリと止まってしまうわけではない。むしろ蜜月によって強固に深まった絆が互いを離すまいと結びついている。
キラとディーが過ごした蜜月は約半年だ。それだけの日々をディーの自室で二人きりで過ごしてきた。
フリューゲルの支配者であるディーは半年という期間を不在にしたわけだが、その治世に揺らぎはない。
だが……、支配者である自分にしかできない様々な仕事が山積みとなっているのは想像に容易い。執務室のドアを開けた瞬間に机と床に積まれた書類の山が視界に飛び込むに違いない……。
ディーもまたキラとは別の意味で部屋の外で待ち構えている現実に密かに頭を悩ませているのだ。
「キラ。俺のキラ」
ディーは部屋の外という現実に苦悩している番をぎゅっと抱きしめて頬を寄せた。
「《arik》」
たったワンフレーズでも蕩けてしまうようなディーの《歌》。
常にキラにだけ向けられるその蠱惑的な歌声に、キラの胸は切ないまでにきゅっと絞めつけられてしまう。
「《onero arik》――……」
「……《ihd》……」
キラもまた求愛する雄鳥への鳴き返しのように《歌》を紡ぐ。
こうして二人だけの濃密な蜜月を過ごす中で、ディーのひたむきな《歌》に惹かれたキラも《歌》を僅かながら紡げるようになっていた。
互いに《歌》を紡いで共鳴し合うのが大天使の求愛だ。今のディーが魔族寄りの存在であったとしても、その《歌》は天界の大天使達とは比べようもないまでに魅力的だった。
ディーはキラの髪に頬をスリッと擦り付けて、優しく求愛の口付けをする。
「お前はこの夜鴉公の番だ。このフリューゲルで最も幸福で恵まれた番なんだ。俺からの愛を当然の物として受け入れてくれ。俺に愛されている様を他の連中に存分に見せつけてやれ。それがフリューゲルの安定にも繋がるんだからな」
「……あれ? 私って責任重大? まさかとは思うけど、フリューゲルの命運が私にかかっている……?」
込み上げた不安に困惑しているキラにディーは「そうじゃない」と苦笑した。
「フリューゲルを正しく治めるのは俺の役目で、お前はその番だ。お前は今まで通りに俺の傍にいてくれればそれでいいんだ。お前が傍にいれば俺はやる気が出るし、城の配下共の士気も上がるし、巡り巡ってフリューゲルに住む全ての者の安泰にも繋がる」
「えぇ……? もしもディーと私が大喧嘩とかしたら、フリューゲルが揺らいじゃうの?」
夜鴉公の番という自身の立場に重圧を感じたキラの表情が硬直する。
だが。そんな番の不安を粉微塵に粉砕するように、ディーは声をあげて爽快に笑い飛ばした。
「あっはははっ! その程度で揺らぐようなら、支配者の俺が無能の馬鹿だってことだ! お前の存在はフリューゲルにとってプラス要素にしかならない。キラはキラらしく生きていてくれるだけでいい。誰かに在り方を強要されることなんて絶対にないし、俺がさせない。
だから、な? 遠慮なく俺にあらゆる罵詈雑言を吐き出してぶん殴ってくれ!」
「なんか私の番が私との喧嘩にワクワクしていてドン引きなんだけど?!」
「あははははっ!」
ディーは自分に抱きしめられたまま胸板をポカポカと殴ってくるキラが可愛くて仕方がない。
「たとえ何があったとしても、俺がお前を嫌いになって心が離れるなんてことはあり得ない。お前は遠慮なく俺に不平不満をぶつけてストレスを発散してくれ。キラの平穏が俺の平穏なんだ」
「……私側から喧嘩するのが前提みたいで腹が立つんだけど? ディーも私に不満とかあったら我慢しないでちゃんと私に言ってよねっ」
キラは拗ねたように顔をプイッと背けたが、未だにディーの腕の中にいるのだからほぼ意味がない。
込み上げる愛おしさにディーはクスッと微笑んで、チュッチュッと啄むような求愛の口付けをした。
「俺の場合、お前との仲に違和感を感じたら『俺がキラに何らかのストレスを与えてしまっているだと? あぁ俺はなんて愚かな番なんだ』と一人で勝手に病む可能性の方が高い」
「これだから臆病な鴉は……っ。一人で抱える前にちゃんと声に出すのっ! 私がそれでディーを嫌ったりなんてないから!」
「あぁっ、俺のキラが優しいっ……」
「ちょっ……、私の番が不安定で心配なんだけど?!」
キラを絶対に逃さないとディーに大きくガバッと抱きしめられて、キラは思わずその腕の中でワタワタともがいた。だがその程度の力ではディーの抱擁が解けるはずがない。
ディーにますますぎゅっと抱き寄せられて――……。キラはその抱擁が単なる甘えではなく、まるで置き去りを怖れて親の手足に必死で縋りつく幼子のようだと気が付いた。
ディーの背中に手を回して優しく擦り、逆にディーを抱き寄せる。
「ディー、早速何か不安があるの?」
キラの問いにディーは小さく吐息を漏らして番の髪に頬を擦り寄せた。
「…………そろそろ部屋から出ないといけないと思うと憂鬱でな……。一生キラとこうしていたい」
ディーの言葉にキラもようやく気が付く。――この夢のような日々から日常へと戻る時期が訪れたのだ、と。
キラはディーの胸に顔を埋めて目を閉じた。
「……私だってそうしたいけれど……、そんなの無理でしょ。私の夜鴉公は良君であって、傍若無人な暗君ではないんだから」
「俺は大天使連中と比べれば魔族らしく好き勝手に振る舞ってきたつもりだがなぁ……」
「私は他の上位魔族の統治がどんなものなのかを知らないけれど、ディーは元が大天使だから他の人達よりも真面目なんじゃない? そうして今までちゃんとやってきたから、それに応えるようにお城の皆が私達を支えて見守ってくれて、それで私達も蜜月の期間を快適に過ごすことができたってことだと思う」
諭すようなキラの言葉にディーがクスッと苦笑した。
「ふふっ、何やらさっきまでとは違うな? あんなに恥ずかしがっていたくせに」
「ムッ……。その、ディーと話をして考え方が変わったってだけで、恥ずかしいのには変わりないんだからねっ!」
「ふふっ、俺のキラは照れ屋で可愛いなぁ。俺がキラの全身に付けた全ての痕を一つ一つ見せつけて自慢してやりたいくらいだが、その痕を数える特権があるのは番である俺だけだ」
「ちょっ……」
言うや否や問答無用でキラの首筋に吸いついて新たな痕を付けるディー。しかも必要以上に立てた熱いリップ音が実に色っぽい。
そんな彼にすっかり慣れてきたキラはディーの額をペチッと軽く叩いた。
ディーは心のくすぐったさにクスクスと笑うと、改めてキラを抱き寄せる。
「俺はこれからもずっとお前に求愛し続ける。お前もそうしてくれると嬉しいな」
「……私はディーと違って人前ではやらないよ」
「ああ。さりげなくイチャイチャして俺達の仲を見せびらかそうな」
「まったく、もう……」
ディーの甘い囁き声にキラがクスクスと笑うと、ディーもまたふふっと笑って仰向けになった。
両瞼を覆うように右腕を乗せて、ため息をつく。
「あーあ……。あと一年くらいはこうして二人で巣籠もりしていたかったなぁ。執務したくないなぁ」
「ちゃんとしてよ、夜鴉公さん。というか『巣籠もり』って……、え? もしかして本当にそういう表現をするの?」
「ああ。番と二人で巣に籠って過ごす様を表す言葉だ」
「……私が知らないことだらけだなぁ……」
そもそもキラは天界にいた頃も学びを得られる機会がなかった。それがフリューゲル城に来てメイドのレンに協力してもらったことで様々な教養に触れられる環境となったのだ。
夜鴉公の番とはフリューゲルの女主人であることと同義だ。胸を張ってディーの隣にいるためには無学も同然な今のままではいけないという焦燥感の芽が疼いてしまう。
そんなキラの機微を感じ取ったディーが優しく求愛の口付けをした。
「ま、言葉なんてどうだっていいさ。大事なのはこうして俺とお前が番として一緒に添い遂げられるっていう事実だけなんだからな」
「……私、ディーが執務をしている間はお勉強したい。ディーの隣にいて恥ずかしくないように」
キラの言葉にディーは微妙な顔をする。
「キラ……、さっきも言っただろう? 誰もお前の在り方を決めつけて強要することなんてない。お前が重圧を感じる必要は本当にないんだ。俺はお前を溺愛したい」
ディーはそう言いながら頬擦りして甘えようとしてきたが、キラはディーの顔を遠慮なくガバッと押さえて阻止した。
「私がそうしたいのっ! そんな私の希望を否定するなんて、ディーこそ私の在り方を決めつけて強要してるよ。私をお飾りの番にしたいの?」
「ッ?! おかッ――……!」
キラが発した「お飾りの番」という言葉にディーはかなりのショックを受けたようだ。絶句したディーはゴッソリと消えた絶望の表情で、焦点が定まっていない。
これだから心が繊細な鴉は……。キラは大きくため息をついて、ディーの両頬にそっと手を添えた。
「ほら、いつまでも引きずっていないで。私の好きにしていいんでしょ? それなら私はお勉強をしたい。ただそれだけなんだから。ディーも私に色んなことを教えてね」
「……お……、俺は、ただ……。ただ……、お前には楽をさせたくて……っ」
「うん。ありがとう、ディー。わかってるから大丈夫だよ。ディーが私を大事にしてくれることも、私をあらゆる危険や困難から遠ざけたいって思ってくれていることも、私はちゃんとわかってるから。凛とした夜鴉公としてのディーは格好良くて好きだけど、私に過保護で甘々なディーはもっと大好きだよ。
でも――、ね? 私が大人しくしているって思った?
私は天界から飛び出したし、ディーの忠告を守らないでバドに行っちゃったんだよ? あの迷惑おねーさんにも自分から絡んだし、爪牙公の狼さんがお城を襲ってきた時だってじっとしていなかったんだよ? そんな私が大人しくしているって思った?」
キラはディーと目を合わせながら冗談めいた口調で悪戯っぽく微笑む。
そんな番の小悪魔的な眼差しに、虚ろだったディーの焦点が定まった。
何度かパチパチと瞬きを繰り返してから、フッと力の抜けた苦笑をする。
「ああ……、そうだな。俺のキラが大人しくしているはずがないか。それで、お前は何を学びたいんだ? 俺のあらゆる権力で選りすぐりの教材と教師を付けてやる」
「えっ、教師? そ、そこまで力を入れなくてもいいかなー……?」
ディーは先ほどまでとは真逆の企み顔だ。
対照的にキラはひきつった笑いを浮かべながらディーから逃げようと身じろぎしたが、キラの腰からディーの手が退けられることはなかった
「ククッ、怯んでいて可愛いなぁ。だが、安心してくれ。基本的なマナー程度ならこれまでどおりにレンが教えられるし、他の教養もシシーとジルでほぼ網羅できる。それで足りない部分は俺が教えられる。外部から招いた教師をお前にあてがうなんて真似はしないし、したくない。過保護と謗られようがこれは譲れんぞッ!」
「なんでそこでディーがムキになってるの……」
後半を早口で捲し立てたディーにキラは苦笑するが、ディーは不機嫌な膨れ面で口をへの字に曲げている。
「外部の奴をわざわざ俺の城に招き入れてお前に近付けるだなんて、冗談じゃない。俺は俺の部屋という巣からお前を出すことさえ苦痛なのに、俺の配下以外の奴を接触させるだなんて冗談じゃないッ」
「興奮しないでよ……。これで何かトラブルがあったら一生ディーの部屋に監禁されそう」
「お前を俺の部屋に監禁? 本気でするなら部屋どころかお前をベッドの上から動けないようにするだろうな」
「はいはい、愛が重いヤンデレ発言はやめてね。そもそも私は『外部の教師がいい』なんて言ってないでしょ。むしろレンやシシーが教えてくれるなら願ったり叶ったりだよ。ありがと、ディー」
「ん……」
キラに頬を口付けされて、ディーの気配と表情から緊張が消える。
そして幸せな表情でキラに擦り寄ると、ベッドに右手をついて上体をのっそりと起こした。
「蜜月の日々がかつてないほどに幸せすぎたから、俺は平和ボケしすぎているらしい……。これじゃあ部屋から出ても役立たずで腑抜けな夜鴉公で、側近共に舐められちまう。
だから、な? 俺のリハビリに付き合ってくれ」
「リハビリ……?」
ディーはきょとんと自分を見上げているキラに求愛の口付けをすると、片手で雑に前髪を掻き上げてニヤッと笑った。
「外の空気を吸いに行こう。ついでに思いっきり伸びをしそうな」
ディーの転移魔法で訪れたのは、半年前にディーが求愛をしてくれた山の頂きの古代遺跡だった。
あの時は深夜から朝焼けの時間帯だったから周囲の景色がよく見えなかった。
だがこうして明るい昼間に見回すと真っ白で柔らかな雲海と、その切れ目から鮮やかな緑の山々が除き見える。
「んーっ、空気が美味しい……!」
澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで気持ちよく深呼吸をする。空を飛ぶことができないキラにはこの高度の空気は新鮮だ。
「キラは無邪気で可愛いなぁ」
ディーはそう言いながら生き生きとした番の姿に優しく目を和ませて、その偉大な翼をバサリと具現化した。
久しぶりに見るディーの自由な翼――……。いや、営みの際に本能を剥き出しにしたディーが翼も使って自分を組み敷いてきたりもしたのだが。
ともかく、ここまで翼を伸び伸びと広げたディーの姿は半年振りだ。その優美な姿にキラは思わず見惚れてしまう。
ディーは自分を一途に見つめているキラに手を差し伸べた。
「ほら、キラも翼を出すといい。思いっきり伸びをすると気持ちいいぞ?」
「えっ? ええと……」
「ほら」
ディーに促されるままキラもそっと翼を具現化する。
キラの背中から広がる灰色の翼。半年の間ディーの寵愛を受け続けた影響で色艶が良くなり、その翼はより滑らかで美しいものとなっていた。
その光景をうっとりと見つめていたディーが両手と翼を大きく広げる。そして。
「――《agaw ikiuoyr urat oyaros》」
絶大なチカラを誇る夜鴉公が紡ぐ《歌》。
その明朗な歌声が瞬時に周囲を支配した。
「《agaw owiagust ukuhukuys oyes》」
「!」
嗚呼――。ディーの歌に呼応したフリューゲルの空がキラを歓迎している。
呼び起こされた風がキラを包み込んでいく……!
「……っ!」
それらに本能が刺激されて、キラは無意識に翼を広げた。
天界では抑圧されて具現化すらしてこなかった翼。天界から逃げ出してからもひた隠しにして、賊に終われた挙げ句に折られてしまった翼。そして、ディーのおかげで今ではすっかり治った自慢の翼。
これまで不自由であったその翼の先端までピンと伸ばして、生まれて初めて大きく伸びをする。
「ん~……っ!」
こうして伸びをすると確かに気持ちいい。
凝り固まった翼が適度に解されて、心まで解放されていく高揚感――……!
「はぁぁ……、すっごく気持ちいぃ……っ!」
「ふふっ、お前のご機嫌な喘ぎ声が聞けて俺は最高の気分だ。滾ってくるなぁ」
「たぎッ――……、せっかくのいい雰囲気を壊さないでくれる?!」
「いてっ。あははっ!」
振り向き様にディーの手を叩くと、ディーは嬉しそうに翼をバサバサとさせた。その反動で抜け落ちた鴉羽色の羽根は周囲のマナにキラキラと融けて、風と一緒にフリューゲルを駆けていく。
大天使の羽根はその大天使のチカラが具現化したもの。フリューゲルの支配者であるディーの羽根は、そのままフリューゲルの糧となるのだ。
その美しい光景に見惚れていると、ディーに左手を優しく取られてそっと手甲を口付けされた。
「キラ、おいで」
穏やかで楽しげなディーの声音。
自分を誘う番の声に視線を向けると、ディーはニコッと微笑んで一度大きく羽ばたいた。
すると、手を取られたままのキラの体もフワリと浮く。
「ひゃっ……?!」
「怖がらなくていい。フリューゲルは俺の領域であり、この空は俺の居場所だ。俺の空がお前を拒むことなんてない」
飛ぶことに慣れていないキラが思わず体と翼を縮ませると、ディーは優しくそう言いながらキラの左手をしっかりと握った。
「俺のチカラに合わせてごらん。なぁに、難しいことじゃない。目を閉じて、俺のチカラを感じ取るだけでいい」
頬と翼を撫でる風。そこにディーのチカラが溶け込んでいて、とても心地良くて……。
まるでふわふわな綿雲に暖かく包まれているかのようで――……。
「そう、上手いぞ。その調子だ。ふわふわ、ふわふわ。体が軽やかになって、重力という枷が外れていく……」
ディーの声とチカラがキラの魂のリズムと呼応して、朝の微睡みのような心地良さに揺蕩っていく。
ふわふわ、ふわふわ。ふわふわ、ふわふわ……。
「……」
キラがふっと目を開けて下を見ると……、自分とディーの体は地面を離れて浮かんでいた。
とはいえ、ディーの身長の三倍程度の高さだ。左手はディーにしっかりと握られているし、そもそもディーのチカラに包まれているから、キラに怖さは全くない。
「わぁ……。全然違う……」
キラが自力で飛んだ経験は片手で数えられる程度だ。天界から境界の地へと逃れた時は落下も同然だったし、バドで賊に追い回された時は死に物狂いで無様に羽ばたいて逃げ惑うだけだった。
それがこんなにも穏やかで、何よりも心地良いだなんて……。
「なっ? 空はいいだろう? 練習すればキラも自由自在に飛べるようになる。そうすればもっと気持ちよくなれるぞ」
「わぁっ……!」
この歓喜は翼を持つ者の本能だ。その翼で自由にのびのびと飛び回る権利を有する者だけが持つ本能。
キラの紅潮した頬に口付けをして、ディーは微笑む。
「これからもこうして二人だけで飛ぶ練習をしよう。これは他の奴には教えられないことだし、そもそも俺は誰にも譲るつもりもない。俺は執務を、キラは勉強を頑張る。そうしてたまにはこうして飛ぶ練習をする。文字通りの羽伸ばしだ」
「ふふっ。それは楽しみだね」
穏やかに同調したキラの口調にディーは「そうだろう?」とお茶目にウインクをした。
――そうして蜜月の思い出と新たな目標を携えたキラとディーは、半年にも及んだ巣籠もりを終えて、平穏な日常へと戻っていった。




