ディオルトという男
キラは「自分がディーから叱られるだろう」とは予想していた。
ディーはいつも自分に甘くて優しいが、今回は彼に心配をかけてしまったし、彼の居城内で騒ぎを起こしてしまったのだから仕方がない。
――だが。その影響はキラの予想を遥かに越えたものだった。
「ディー。ねぇ、ディー。待って」
ここは夜鴉公の執務室。この場にいるのはキラとレン、ディーとジルの四人だけだ。
ディーは執務机の席に座したまま。その傍にジルが控えている。レンはディーの前で猫耳と尻尾をしょんぼりとさせて叩頭しており、キラはその隣でおろおろとしていた。
「ディー、待って。レンの忠告を無視した私が悪いの!」
キラが焦って止めたのがレンへの懲罰だ。
レンはキラのメイド兼護衛。キラの安全を確保し、身を呈してでもキラを守ることを使命としている。
あの時もレンはキラを危険な場所から遠ざけようとしたが……、キラはそれを制止してしまった。
「キラ、今は黙っていろ」
抗議するキラに向けられた深紅の目は――……、いつもの優しい眼差しではなく、夜鴉公ディオルトとしての冷淡なものだった。
これまでディーが自分に向けたことのない冷たい目。キラはその視線にショックを受けて心臓が縮む。
「レンがあの場にお前を行かせたのは完全な命令違反だ。何故なら俺がレンに『俺の意に反しない限りはキラの命令を聞くように』と命じていたからだ」
「え? あっ……」
キラは初めてレンと会って紹介された時のことを思い返した。
『お前のメイド兼護衛に付けるレンだ。俺の意に反しない限りはお前の命令を聞く』
「今回の場合、俺の意は『あの場からキラを離すこと』だった。レンは俺の意を汲み、キラをあの場から何としてでも引き剥がすべきだった。だがレンはそれをしなかった。つまりレンはこの俺の命令を破った」
「…………」
絶句するキラを一瞥し、ディーは叩頭し続けているレンに視線を向けた。
「お前には失望した。当面の間、お前をキラの護衛から外す。三日間の謹慎処分。その後、改めて罰を与える」
「はい、主さま」
……キラは目の前で起こる一連の流れに口出しができなかった。
退室していくレンの背を見つめて――……、閉ざされたドアが断頭台の刃を連想してしまい、キラは思わず身を竦ませる。
「…………」
ディーは執務机に頬杖を突くと、大きくため息をつきながら「さて……」とキラに視線を移した。
「キラ、泣きそうになっているんじゃない。勘違いするな。レンは厳守すべき俺の命令を違反した、だから罰を与える。そこにお前の存在は関係ない」
「っ、だって……っ。レンは私が行かないようにしようとしたんだよっ? それを、私が……っ」
ショックで涙が出てきた。
レンが自分のせいで罰を受けることになった罪悪感。初めて夜鴉公としてのディーと対面した恐怖……。そのどちらも恐ろしくて仕方がない。
肩を小刻みに震わせながらぽろぽろと涙を流すキラに、ディーは肺の空気をすべて吐き出すかのような大きなため息をついた。
「キラ、こっちにおいで」
……いつものディーの甘く蕩けるような声音……。
顔を上げると、先ほどとは違った優しいディーの眼差し。
手招かれるままに執務机の向こう側にいるディーへと近寄ると、ディーはキラを軽々と自分の膝に乗せてしまった。
「ふぇっ? え? えっ?」
膝の上に乗せられた驚きよりも、キラは先ほど対面していた夜鴉公といつものディーとのギャップに頭が混乱している。
そんなキラの左右のこめかみに、ディーは優しく求愛の口付けをした。
未だ小刻みに震えていたキラの手がディーの大きな手でフワリと包み込まれる。
「俺の可愛いキラ」
ディーの甘い声。
自分にだけ向けられている特別な声。
「俺はお前を甘やかすし、悪戯を許すし、我が儘だって聞くさ。でもな? だからといってキラが『溶岩に手を突っ込んで火傷してみたーい!』なーんて頓珍漢な真似をしようとしたら、さすがの俺も怒って止めるぞ?」
「うえぇっ?! ……あっ……」
あまりにも突拍子のないディーの例え話に驚いて変な声が出たが、その直後にハッと気付く。
……そうか。ディーにとって今回の出来事はそれと同じくらいにとんでもない出来事だったのだ。
ディーはキラの赤く腫れた目元を優しく撫でた。
「俺はキラには危ない目に遭って欲しくないし、傷付いて欲しくない。そのための手段としてレンを付けたのに、レンは俺が命じた仕事をしなかった。わかるか?」
「……」
「レンはお前の単なるお友達じゃなくて、お前を世話して守るメイド兼護衛なんだよ。俺はこの城でキラに居心地良く暮らして欲しかった。突然城に連れてこられたキラが変な緊張をしないように、気晴らしになるようにと、あの能天気で明るいレンをあえて選んだ。俺の判断は間違っていたか?」
「……ううん。レンにはいつも助けられているよ……」
キラが力なく首を横に振ると、ディーはあやすようにキラの頭をポンポンと撫でた。
「レンはお前のことが大切で大好きなんだ。そしてレンは俺の大事な配下の一人だ。キラがレンを大切に思うのなら、次からはレンを苛めないでやってくれ。俺とキラの板挟みの状況は、レンにとって相当辛いものだからな。わかるか?」
「……うん……」
「よし。――ジル」
ディーは再び愛情たっぷりな求愛の口付けを丁寧にすると、視線はキラに向けたままジルに声を掛けた。
「レンを任せる。上手くやれ」
「はい、閣下」
そのやり取りに不安を抱いたキラが視線を向けると、ディーは安心させるように優しく微笑んだ。
「別に体罰を与えるような真似はしないさ。レンはメイドと護衛の基礎を少し復習する必要があるから、その指導係をジルがするんだ。ジルの指導は厳しくて怖いぞー? 他の側近共から影で『狂犬』と呼ばれているからな」
悪戯っぽく目を細めて笑うディーに、ジルは片眼鏡をクイッとさせた。
「閣下、その『狂犬』の飼い主とは一体どなた様なのでしょう? きっと恐怖の権化のような御仁なのでしょうね」
「あはははっ! 照れるじゃないか」
声をあげて快活に笑うディーをキラはポカンと見つめる。そして……、そうか、と腑に落ちた感じがした。
――――……これが、夜鴉公ディオルト・ノクス・フリューゲル……。
魔界の序列第三位、夜鴉公。広大なフリューゲルを治め、数多くの魔族を従える者。
フリューゲルを統べる者として毅然と立ち振る舞い、外敵があればその絶大なチカラでこれを打ち破る。
幼い身でありながら生き地獄を経験し、天界から捨てられ、魔界で生き延び、底辺から這い上がった絶対的な強者――。
それがディオルトという男なのだ。
キラがこれまでよく知らなかった、ディーの顔だ。
「――――」
キラがディーの横顔を見つめていると……、その視線に気付いたディーが何かを企むように不穏な笑いを浮かべた。
「さ、レンについてはここまで。これから先は――、俺の可愛いキラのおいたを叱る時間だ」
「えっ」
いつものディーの優しい声音……。だが、絶対に逃れられない圧を感じる……。
思わずキラが体を固くすると、ディーは更に笑みを深めながらキラの頬をむにっと柔らかくつまんだ。
「大事な恋人が危ない真似をしたのなら叱る、当たり前のことだよなぁ? それともあれは、キラにとっても俺にとっても『危なくない真似』だったのか?
さぁ、キラ。俺の愛しいキラ。この俺を納得させてみせろ」
ディーは恐怖の微笑を浮かべながら、キラの頬をむにむにモチモチぷにぷにと揉み続ける。もちろん痛みは全然ない。
むにむに攻撃を受けながらキラの頭は混乱した。
「ふへぇぇっ? え、ええと……。何だか面白そうな人がいたから、ちょっと遊んだだけ……、だよ?」
「それで?」
「えっ、ええと……。私にはディーの加護があって怪我とかしないから大丈夫だと思って……?」
「それで?」
「うぅ……。あんな風に可愛く吠えられても、私は痛くも痒くもなかったし……?」
「それで?」
「えっと……。その……。お、面白かった、し……?」
「それで?」
「…………」
「なんだキラ、もう終わりか? その程度ではダメだ。とてもじゃないが納得できない。ほらキラ、かかってこい。この夜鴉公に全力でかかってこい」
「ひっ、ひえぇぇぇ……っ!」
それから完膚なきまでに打ち負かされたキラは、ディーから長いお説教を受けた。
決して声を荒げることなく、問題点を一つひとつ丹念に潰しながらこんこんと諭すディー……。
キラの何が悪かったのか。その結果ディーがどれほど心配して心を痛めたのか。配下達を魔力暴走に巻き込んで危険に曝したことを理解しているのか等々……。
お説教が終わった後もディーはキラを離さない。意気消沈してくったりとしているキラを膝に乗せたまま、何事もないかのように書類仕事をしている。
「……」
家令としてディーをサポート中のジルは主人の膝上にいるキラを完全にスルーしているが、所用で執務室を訪ねてくる側近達からの視線が刺さる……。
恥ずかしさやら何やらで、とても顔をあげていられない。なのでキラはディーの左肩に顔を押し付けたまま固まっていた。
「可愛い」
ディーは執務をこなしながら、ふと手を止めてはキラに求愛の口付けをしてくる。そしてまた手を動かす。その繰り返しだ。
……今回の一件は自分が悪かったとわかっているのだが、初めて訪れたディーの執務室でこんな目に遭うとは。恥ずかしい……。
「よし、終わり」
最後の書類にサインを終えたディーがグ~ッと背伸びをした。
そしてまた当然のように求愛の口付けをする。
「ねぇディー……、もう膝から降りてもいい……?」
「ダメだ。傍にいろ」
疲労困憊なキラの訴えはアッサリと却下された。
「ちゃんとディーの傍にいるから降りてもいい……? これって傍のレベルを超えたゼロ距離だよ……?」
「どこまでが傍なのかは俺が決める。レンが戻るまでは俺の傍から離さない。四六時中、俺の傍にいろ」
「……」
はたして解放させるのは何日後なのだろうか……? キラは遠い目で思考を放棄して――……、ハッと我に返った。
嫌な予感が止まらない。
「え、待って? 四六時中?」
「そうだが?」
「え? えぇっ? なんでっ?!」
ディーが再びキラの頬をむにっと優しくつまむ。
「そんな疑問が出るだなんて、俺がどれほど心配して傷付いたのかをまだ十分に理解できていないんだな」
「だ、だって、ただでさえ加護が過剰なのに過保護がすぎるでしょ?!」
「ダメだ。キラが俺の腕と翼の中にいる状態でないと安心できない。一緒に飯を食って、一緒に寝ような」
「おふっ、お風呂とかどうするの?!」
「そうだなぁ、一緒に入るしかないな?」
「無理っ! 無理むりムリーッ!」
「あはははっ! ああ、可愛いなぁ。俺のキラ。愛しい俺の恋人。絶対に離さない」
膝の上であたふたと暴れるキラをギューッと抱き締めたディーは、すっかりいつものディーだった。
その後……、ディーは本当にキラを離さなかった。
ディーが頑なにキラを離さないから抱き上げたまま移動して、膝に乗せたまま一緒に食事をして……。
入浴だけはキラが断固拒否したために別々だったが、その後は当たり前のように自室のベッドにキラを入れた。
「……つ、疲れた……」
隣で天井を見上げたまま放心しているキラに、横向きで頬杖を突いた体勢のディーがクスクスと笑っている。
ディーは普段とは違って寝間着を緩めに着ていて、そのために胸元が少しはだけている。
……ディーには不謹慎かもしれないが、はだけた寝間着の隙間から僅かに覗く傷痕と筋肉すら色っぽいのだから問題だ。
そんなことを考えて恥ずかしくなったキラは、力なく両手で顔をペタリと覆った。
「キラは弱った姿も可愛いなぁ」
「誰のせいで弱っていると思っているの……」
「自業自得だろう?」
「ぅ……」
それを言われたら言い返せない……。
キラが逃げるように頭まで布団をモソモソと被ると、ディーはまた嬉しそうに笑った。
「俺のキラは布団に潜っただけでも可愛い。何をしていても飽きないなぁ」
「…………ねぇ、ディー……。引かなかった……?」
「? 何がだ?」
ディーの不思議そうな声に、キラは布団に隠れたまま体を丸める。
「……昼間のこと。あのおねーさんに対する私の言動……」
「あれのどこが引くんだ? 健気に応戦しているキラは可愛かったよ。俺はキラの全部が好きなんだ。お前がすることは何かもが愛おしくてたまらない。もちろん危ない真似は許容できないがな」
「……」
ディーの言葉に少しほっとしていると、少し間を挟んでディーが小さくため息をついた。
「……お前の方こそ、大丈夫か? 俺を嫌いにならなかったか?」
「えっ?」
予想外の言葉に驚いて布団から顔を出すと、ディーは少し眉尻を下げて不安そうにキラを見つめていた。
「な、なんで? 嫌いにならないよ」
「……その……、怖がらせただろう? あんな風にキラと対面したことなんてなかったしな」
夜鴉公たる言動のディーを思い返して、キラは首を横に振る。
「ちょっとびっくりはしたけれど、大丈夫。凄くかっこよか、っ、た……ょ…………」
思わず自然と口走った言葉に途中で気付いて尻すぼみになっていくと、ディーは目を丸くしてフフッと微笑んだ。
「なら良かった。今夜はいい夢が見られそうだ」
「……私が嫌ったんじゃないかってそんなに不安だったの……?」
「俺は臆病だからな」
「…………」
キラは苦々しく笑っているディーを見つめる。
いつものディー。繊細で臆病なディー。恐るべき夜鴉公ディオルト。全部がディーだ。
ディーはいつもまっすぐな心と言葉を自分に向けてくれる。
一方で、自分は――……。
「……ディー、いつもごめんね」
「ん?」
今にも消え去りそうな程に小さく震えた声に、ディーは優しく相槌を打った。小首を傾げてキラの言葉の続きを待っているようだ。
キラは小さく深呼吸をして、怖じける心を抑える。
「…………私……、自分の気持ちとかを人に伝えるのが苦手なの。その……、こ、こわ、怖くて……。だから、その……、す、素直になれない……」
天界にいた頃はいつも孤立していて、周囲にいた者達から悪意を向けられてるのが日常だった。
キラとまともな対話をしたのは孤児院の院長だけ。その院長もキラの完全な味方とは呼べない存在で、いつも必要最小限で当たり障りのない接触だけだった。
……今思えば、境界の地の情報と魔法道具をキラに与えたのも、キラを孤児院から追い出すための誘導だったのだろう。
他者にうっかりと弱みを曝すとそこに漬け込んだ陰湿ないじめを受けるだけ。
自分の心を緩めることなどとてもできず、天界ではいつも仮面を被って生きてきた。
「……だから……、ディーみたいに、上手く言えないの……」
涙を堪えながら震える声でポツリポツリと伝える。
……フリューゲルの暮らしは本当に穏やかで、優しくて……。それで天界にいた頃よりも心の壁がもろくなったのだと思う。
そんなキラにディーは愛しそうに目を細めて、左のこめかみに丁寧な口付けを落とした。
「キラ、大丈夫だ。他者に心を開く怖さは俺にもわかる。傷付いた心をゆっくり癒していこう。俺はキラを絶対に見捨てない」
「……」
ディーも悪意に曝されて、心身共に傷付いて……、そうして今のディーがいるのだ。
だからディーは心が竦んで身動きがとれない自分を理解してくれている……。
「ディー……」
布団の下で手を伸ばしてディーの手を探すと、いつもより冷たい指先に振れた。そのままディーの手をそっと握ると、ディーは嬉しそうにふふっと笑って握り返した。
ディーの手の感触が頼もしくて心地良い……。
「……ねぇ、ディー……」
「ん?」
「わ……、私が返事を先延ばしにしてぐずぐずしているから、だからあんなおねーさんが出てきたの……?」
申し訳ない気持ちで心が締め付けられる。それと同時に勇気と覚悟が決められない自分に嫌気が差してしまう。
だが、ディーはどこか楽しそうにふふっと笑った。
「関係ないから安心しろ。あの手の阿呆は何があっても勝手に湧いてくるもんだ。ほっとけばいい」
「……」
キラはわざと明るい声音をしたディーの優しさに黙り込む。
そんなキラにディーはふぅとため息をついた。
「だから、変な責任感で返事を急ごうだなんて思わないでくれよ? 俺なら大丈夫。キラが返事をしたくなる時まで待てる。だから、何も心配しなくていい」
「……うん……」
ディーはそう言ってくれた、が……。情けなさ、申し訳なさ、焦り。キラの心の中には様々な感情がひしめいている。
思わず枕に顔を埋めると、ディーは再びふふっと笑った。
「ああ、いじらしくて可愛いなぁ。本当に可愛い。俺のキラ。愛しい恋人。俺の番……。キラは一体いつどんな風に俺を夜に誘ってくれるんだろう」
「?!」
あまりにも不意打ちの言葉。反射的に引っ込めようとしたキラの手は、熱を持ち始めたディーの大きな手にしっかりと握られたままだった。
急速に脈打つ心臓のバクバク音がうるさい。
「ち、ちょっと? 急に変なことを言わないで? おとなしく寝ててッ?」
「俺はおとなしく寝ているぞ。だってお前から夜を誘ってくれるんだもんな?」
「~~~っ! 馬鹿! 変態っ! ディーだって恋愛初心者なのにぃ……ッ!」
「楽しみだなぁ」
「馬鹿ぁぁ~っ!」
あっという間に茹でダコになったキラにご満悦なディーは、キラの手を優しく引き寄せた。
熱い手背にそっと丁寧な口付けをしてからキラの手を解放する。
「おやすみ、俺の可愛いキラ。今夜は俺と一緒に気持ち良く寝ような」
「い、言い方ッ……!」
「そんなに大きな声を出して興奮すると眠れないぞ?」
「馬鹿ぁ~……っ!」
一人で恥ずかしくなって慌てているキラとは反対に、ディーは余裕たっぷりでクックックッと笑っている。
もう寝よう……! キラは再び頭まで布団をカバッと被る。
布団の向こうでディーが優しくクスッと笑う声が聞こえた。
「おやすみ、俺の最愛のキラ。――恋人になった日に『ちゃんと好き』と言ってくれて心が救われた。そして今日も『私のディー』と言ってくれて本当に嬉しかったよ。それで俺は十分だ。ありがとうな、キラ。本当にありがとう……」
「……っ」
ディーの真心を込めた言葉に、キラは息を詰まらせた。




