番って、なんだろう?
「ああ、もう……っ!」
麗らかな午後の昼下がり。清々しい中庭を散歩中だというのにディーとのやり取りをふと思い出したキラは、思わず大きな独り言を言ってしまった。
作業中の庭師が不思議そうな顔を向けてきたので、冷静さを保とうと頭を振る。
「……も~っ……」
確かに……、自分は「番」というものを理解していなかった。それは認める。
キラは孤児だったから両親を知らない。黒髪で灰色の翼を持つキラは他人から距離を置かれていたから、天使の番や家族を間近で見たり接したりする機会も皆無だった。
実は自分が知らなかっただけで、天界の天使は熱烈な恋愛を経て伴侶を得るのだろうか? 愛だの恋だのという言葉は魔族よりも天使の方が相応しく思える……が、何だか生々しくてちょっと嫌だ。
そして、問題は魔族だ。
キラの先入観ではそもそも魔族の恋愛感情なんて考えられなかったし、あったとしてももっと淡白な関係だと思っていた。なのに求愛の口付けだとか、それどころか番の概念まであるとは……。
そして一番の問題は、ディーだ。彼は大天使と魔族の両方にあてはまるのだから質が悪い。一般的な番への求愛を知らないキラには彼の求愛は強すぎる……。
「お嬢さまは主さまにとっても愛されているのですっ!」
苦悩するキラが面白いのか、それとも生き生きとしているディーに影響されて嬉しくなっているのか、笑顔のレンは無邪気なものだ。
「ねぇ、レン……。魔族の愛情表現ってディーみたいな感じが普通なの……?」
思考のトラップに疲れて煤けたキラは、身近な協力者に助言を求めた。
レンはキョトンとして小首を傾げている。
「? それは人それぞれなのでは?」
「…………ですよね~……」
愛のカタチに正解なんてものは存在しない。正論だ。キラは自分に呆れた気持ちで半笑いをしながら空を見上げた。
綺麗な青空に白い雲。清々しい風に揺れる草花。小鳥と蝶々が平和に飛んでいる。
……おっかしいなぁ……。魔界というのは不気味でドロッとした場所ではなかったのか? 天界で培った先入観が酷い。恐るべし天界の他種族排斥思想、白天使至上主義。
「フリューゲル以外の領域もこんな風に平和な感じなの?」
キラの問いにレンはコテンと首を傾げて尻尾を揺らした。
「んー……。それもそれぞれで、その領域を治める上位魔族の性質が影響するのです。例えば、シャルベーシャは混沌っぽい風景なのです。シャルベーシャのお空は美味しくなさそうな紫色のマーブル模様だと聞いたことがあるのです」
「シャルベーシャ?」
「魔界で最も強い魔族さまが治めている、魔界で一番広い領域なのです」
つまりディーが言っていた「魔王的な魔族」の領域か。紫色のマーブル模様な空……。うーん、魔界っぽい。
「魔界で二番目に広いのはパンテラという領域なのです。雪に覆われた針葉樹林が広がっていて、夜は綺麗なオーロラが見られると聞いたことがあるのです。それと、過激な面もあるのかな?」
「過激?」
「以前パンテラから来た使者が『フリューゲルは刺激が足りない。平和すぎて気が抜けてしまう』と眉間に皺を寄せていたのです」
そういえば以前ディーが「フリューゲルは平和なもんだ」などと言っていた。
「フリューゲルの次に広い領域はファングなのです。ファングでは木がウゴウゴ動いていたり、水の炎が渦巻いて逆流していたり、山が転んだりするのだとか」
「……? 水の炎? 山が、転ぶ……?」
想像が追いつかない……。
「ファングを治めている爪牙公さまは、主さまと大の仲良しなのです」
「ディーと仲良し? どんな人なの?」
彼の交遊関係には興味しかない。わかりやすくパッと顔を向けたキラにレンがふふっと笑っている。
「爪牙公さまはとっても元気で豪快な御方なのです。時々ウゴウゴの木を主さまにプレゼントしてくれるのですが、植えても刈ってもウゴウゴ逃げちゃうので庭師さん達がいつも苦戦しているのです」
話が聞こえていたのか、レンの向こうで庭師のおじさんが魂の抜けた微笑みを浮かべたまま遠い目をしていた。
……そんなゲテモノをプレゼントしてくるとは、それは嫌がらせ行為なのでは?
「えっと……、ディーは本当にその人と仲良しなの?」
キラの質問にレンは軽く首を傾げて「んー……?」と斜め上を見ながら長考し始めて――……、やがて「…………はいっ!」と元気いっぱいに返事をした。
「爪牙公さまは隻眼なのですが、ずっと昔に主さまと大喧嘩をした時の負傷が原因なのだとか。ですが、今ではすっかり仲良しなのです! 爪牙公さまはいつも豪快に笑いながら遊びにいらっしゃいますし、主さまも悪い笑顔で爪牙公さまを魔法で盛大にぶっ飛ばしてフリューゲルの外までお送りしているのですっ!」
「……そっかぁ……」
フリューゲルを守る夜鴉公は大変だ。ディーにはもう少し優しくしよう……、とキラは思った。
その後キラはレンと一緒に散歩を続けて、庭師のおじさんから説明を聞きながらウゴウゴの木を見学した。ウゴウゴの木は専用の飼育スペース内で確かにウゴウゴと蠢いていた。
……いや待て。専用の飼育スペースが必要な木とは、一体……?
やはりキラには魔界の他領域よりもフリューゲルが合っているようだ。きっと元大天使であるディーが《歌》のチカラで治めているからだろう。
「……《歌》、かぁ……」
キラはまだディーの《歌》を聞いたことがない。執務でお疲れなディーに《歌》をせがむのは心苦しいし、いつかきっとディーの方から聞かせてくれると思っている。
キラの方はというと……。《歌》に興味は湧いているものの、そもそも《歌》というものがよくわからない状態だ。
幼いディーは《歌》を教わる前に家族から引き裂かれ、魔界で生き延びていくために本能で《歌》を習得したのだという。だからディー自身も正しい《歌》の教え方がわからない。それでディー自身が習得した時と同じように、キラの本能を刺激してチカラを呼び覚まそうとしているようだ。
「焦らず気長に、ね」
だってディーとは、これから長い付き合いになるのだから……。
「……っ」
少し恥ずかしくなったキラは、パタパタと手で顔を扇いで自分の気持ちを誤魔化した。
何はともあれ、ディーの精神が落ち着いてくれて本当によかった。あれからは夜の悪夢も減ったと言っていたし、色々と好転してきたはずだ。
…………ただ問題なのは……。
「番って、なんだろう?」
キラの独り言にレンはキョトンとしている。
「一緒にいると心から安心する存在、です?」
「あー、なるほど……」
レンの言葉はいつもまっすぐだ。ふむふむと頷いていると、レンがパチリと手を合わせた。
「そうだっ。実際の意見を聞いてみるのはどうでしょうかっ?」
「えっ?」
「え?」
キラの後に続いた疑問符の発信元は、ウゴウゴの木を剪定していた庭師のおじさんだった。
トカゲの尻尾を持つ庭師のおじさんはウゴウゴと蠢く葉っぱと小枝に絡まれている……。先ほど聞いた説明によると、この葉っぱを乾燥させて焚き火にすると極上の焼き芋が作れるそうだ。
レンは葉っぱと格闘中のおじさんに向かって挙手をした。
「確か庭師さんは番さんと一緒になれたのでしたよね? 質問なのですっ。番さんとのなれ初めは?!」
「え、ええぇ……っ? それって今すぐに答えなきゃあいかんのですかねぇ?」
「ち、ちょっとレン! 迷惑だよっ!」
キラが慌ててレンを戻そうとすると、おじさんは「あぁ違いますよ」とふにゃっと笑った。
「語るからには片手間でなくきちんと語りたいですからなぁ。この後に最低でも四刻ほどお時間をいただければ」
「うーん、残念。それじゃあダメなのです。その時間だとお嬢さまは主さまとの大切なお時間なのですっ」
「うはははっ! そいつは失敬! そっちの方が遥かに大切ですなぁ!」
爽快に笑ったおじさんは尻尾をバンバンと地面に叩きつけながら、ウゴウゴと逃げ惑う葉っぱを袋に押し込んだ。
そうして作業を一区切りしたおじさんは、汗を首のタオルでざっと拭ってからキラと向き直った。
「そもそもですなぁ、生きている間に番と出会うこと自体が珍しいのですよ。大半は様々なめぐり逢いの中で添い遂げる伴侶を見つけて家庭を持つ。まぁ人間などもする普通の結婚ですな」
「……私『番』についてよくわからなくて、勘違いみたいなのもあって。ディーの話を聞いて『あれ? 何か違う?』ってなって……」
「それは……、お嬢様も閣下も大層驚かれたでしょうなぁ。お気の毒に」
キラが正直に話すとおじさんは苦笑いをした。
「お嬢様、番とは『二つに欠けた魂の片割れ』とも呼ばれておるんですよ」
「えっと……? でも私は最初にディーが番だとか好きとか、そういう感覚なんてわからなかったよ?」
キラが首を傾げると、おじさんは尻尾を揺らして愉快そうにククッと目を細めた。
「最初から互いを番だと認識して相思相愛となる場合は皆無に等しい。より本能が強い側が番の存在に気付いて求愛し、求愛された側は求愛者と共に過ごす中で徐々に番の魂に惹かれ、やがて『番の縁』を結びたいと想うようになる」
「今のお嬢さまがそうなのですっ!」
レンは嬉しそうだ。猫耳をピンと立ててニコニコとしている。
二人が向ける生温かい眼差しに挟まれてしまい、キラは熱くなった顔を両手で覆った。この状況は恥ずかしい……。
「え、えっと……。求愛者が別人のことを番だと勘違いしているとか、そういうのはないの?」
「ないですな」
「ありえないのです!」
キラの質問におじさんとレンは同時に即答した。
あまりにもはっきりと断言する二人に驚くと、レンは口元に両手を添えて嬉しそうにふふふっと笑う。
「だって、主さまはお嬢さまに『求愛の口付け』をしているのです! 求愛の口付けは番にしかしないのです!」
「で、でも。それも番だと思い込んでしているとか……」
「あーりーえーなーいーのーでーすッ!」
前のめりで白熱するレンの熱量にキラは若干押され気味だ。
思わず半歩後退したキラにおじさんが補足する。
「『求愛の口付け』とは、番相手にのみ行う本能の行動でしてな」
「番相手に、のみ……」
ディーが初めてキラに求愛の口付けをしたのはあの廃墟。ディーは「勝手に体が動いた」と話していた。
「そして、求愛される側についてですが。初対面の時点で相手に好印象を抱いておるのですよ。これも本能です」
「好印象……」
キラは斜め上を見上げてディーとの出会いを思い返す。
――……あの時の自分はエグシスのマーケットにある路地でカツアゲに遭いかけていた。
自分は大柄なチンピラに威圧されて、恐怖に半べそ状態で俯いて固まっていて――……。
『――――おいッ、俺の連れに何をしているッ?!』
明らかな敵意を滲ませた第三者の怒声。
驚いて顔を上げると、自分とチンピラの間に割り込んだ黒髪の青年の背中があった。
『なん――ぐぁッ!』
青年は体格差など無関係にチンピラを易々と蹴り飛ばした。
チンピラは背後の路地に積まれていた木箱を粉砕しながら無様なほど呆気なく倒れて呻き声をあげる。
そんなチンピラを油断なく睨みつけながら、青年はキラを背中に庇い続けていた。
『コイツは俺の連れだ。用があるならこの俺が聞いてやる。おら、さっさと立て』
『なんだとテメェ――……、ッ!』
チンピラは首を擦りながら青年を見上げて――……、ヒュッと喉を鳴らして硬直した。
そしてみるみるうちに顔色が土気色を通り越した蒼白となって、ボロボロと涙をこぼしながら恐怖から歯をガチガチと打ち鳴らす。
そんなチンピラを淡々と一瞥し、青年は短く告げた。
『失せろ』
『ひっ……、ひぃぃぃぃ……っ!』
情けない声と涙を漏らしながら、チンピラは生まれたての小鹿のように手足をプルプルとさせながら四つん這いで必死に逃げ去っていった。
目の前で起きた光景にキラが恐怖を忘れてポカンとしていると、青年が小さくため息のような深呼吸をしてからこちらを振り向いた。
チンピラを泣かせて退散させた恐ろしい青年……。だが、振り返ってキラに向けたその表情と雰囲気は本当に穏やかなものだった。
『大丈夫か? 怪我は?』
『…………え、えぇっと……。ない、よ……?』
『……ふっ、あははっ! そうかぁ』
情けない声音でおどおどと答えたキラに青年は何故か可笑しそうに笑う。
――……今思い返せば、あの時の自分は魔法道具で少年の姿に《擬態》していることを忘れた素の状態だった。演技がバレバレだったから彼はあんなに可笑しそうに笑っていたのだろう。
笑っている青年を不思議に思いながら見ていると、視線に気付いた彼は目尻の笑い涙を拭ってキラと向き直った。
『見掛けない顔だな。この街に来たのは最近か?』
『え? あ、うん……』
『危なっかしい奴だなぁ。人気が少ない路地にホイホイ入るなよ。さてはこういう街を出歩くのに慣れていないな?』
『……う、うん。反省してる……』
キラがポツリと呟いて項垂れると、青年はその頭を優しくわしゃっと撫でた。
驚いて顔を上げると、頼もしい微笑みを浮かべた青年の姿。
『俺はディーだ。お前は?』
『え? キ、キラ……』
『まさか真名か?』
『えっ? 真名だったらキイラだけど……』
キョトンと小首を傾げるキラに青年――ディーはもどかしさを発散するように自分の頭をガシガシと掻いた。
『……ったく、本当に世間知らずだな! いいか? 迂闊に真名を名乗るな。エグシスには変な呪術が使える奴もいる。そんな奴に自ら真名を名乗りでもしたら、あっさりと存在を絡め取られて利用されるぞ』
『ええっ?!』
――あれからエグシスでのディーのお節介が始まったのだ。
こうして当時のことを思い返すと……、確かに自分はディーに対して警戒心すら持っていなかった。
むしろ、安心感というか――……。
「……」
キラが目をぱちくりしていると、その様子を見た庭師のおじさんは腰を叩きながら葉っぱが詰まった袋を担ぎ上げた。
「ご安心なさるといい。お嬢様はご自分の心に従えばよろしい、それだけなんですからな。では、私はこれで」
「あっ、ありがとうございましたっ!」
会釈して立ち去っていくおじさんを見送った後、レンがニコニコと笑顔を向けてきた。
「やっぱり実際の意見は重要でしたね、お嬢さまっ」
「そうだねぇ……」
それまで冷静さを保って説明や案内をしてくれていた庭師のおじさんが、番の話をした途端にコロッと態度を崩して番とは何かを真摯に教えてくれたのだ。
番の縁、かぁ……。
庭の散歩を切り上げたキラがレンとの雑談を楽しみながら渡り廊下を歩いていると……、前方から何やら騒がしくて厄介な雰囲気が漂ってきた。
「ちょっと、私を誰だと思っているの?! 閣下を誑かしたメギツネを早く連れてきなさいなッ! 閣下の番は、この、私なのよッ?!」
衛兵達の壁の向こうでギャンギャンと騒いでいるのは……、ゴテゴテな金髪に真っ赤なドレスを着ている高身長のキリッとした令嬢らしき美女だった。外見年齢ではキラより二、三歳上だろうか?
「……お嬢さま、こちらへ」
「ううん、大丈夫だよ」
スッと雰囲気を切り変えたレンがさりげなくキラの前に出て他の通路へと案内しようとしたのだが、キラはそれをキッパリと拒んだ。
そして。あろうことか、そのまま衛兵の壁に向かってズンズンと歩いていく。
後方にいた衛兵と使用人がキラの存在に気付いて、ババッと驚愕の二度見をしてきた。まさかキラが自ら近付いてくるとは思っていなかったのだろう。
周囲の雰囲気でこちらに気付いた令嬢が、キラの姿に目をつり上げた。
「お前がメギツネね?!」
令嬢が呪力のこもった悪意の言葉をこちらに投げつけてきた――……が、キラの心身はまったくのノーダメージだった。
キラにはディーの加護がこれでもかとばかりに盛られている。なので呪力やら何やらでどれほど攻撃されても効果がないのだ。
『わぁ、すっごい。これがディーが言っていた「迷惑行為をする醜悪としか思えない女魔族」の一人かぁ。魔界って色々な人がいて面白いなぁ……』
それがキラの感想だ。フリューゲル城に来てから心が図太くなったのかもしれない。
そもそも天界で罵詈雑言を散々浴びせられてきたキラにとって、この程度の暴言などもはや暴言ですらない。むしろ可愛いレベルだ。
「何よ、このちんちくりん。こんな小娘ごときが閣下を誑かしたつもりなの?」
黙ったままのキラに令嬢は勝ちを確信したのか、キラを頭の先から爪先までじろじろと見てフフンと鼻で嗤った。
わぁ、ちんちくりんだって。この乱入おねーさん、語彙力が面白いなぁ。次は何が出てくるんだろう?
「本当に惨めな小娘ね。うっかり踏みつけてしまいそう」
自分がすっかりキラの娯楽と化しているとは思ってもいない令嬢は、その高身長を生かして斜め上からキラを見下ろしてきた。キラは小柄だから余計に差が引き立つ。
へえぇ、身長でも攻撃してくるのかぁ。人間よりも骨格が大きいのかな? 何の種族なんだろう? 他に外見的な特徴は……特になさそう? さっきの庭師さんみたいならわかりやすいのに。
「パッと出のメギツネ、一刻も早く閣下の城から出ていきなさいな。私は三年も前から閣下にお目通りをしているの。貴女は偶然飛んできただけのただの埃よ、埃」
ほ、こ、り。
うーん。これは……、久しぶりに言われたなぁ。天界では埃だの灰だの燃えカスだの言われたっけ。もはや懐かしい。
そんな風に呑気に考えながら――……、キラは無表情のままでジッと令嬢の目を捉え続けている。
「…………」
絶対に視線は外さない。
目を離した瞬間に狩りは失敗するのだ。
「な、何なのっ? 黙ったままで不気味なメギツネね!」
ここで令嬢が初めてキラから視線を外した。忌々しげに顔を歪めている。
――勝ったな。
「私を誰だと思っているの?!」
「え? 知らない人」
初めて口を開いたキラから出たのは、心底不思議そうな声音だった。
突然の反撃に、令嬢が眉をピクピクとさせている。
「なッ……、なんて無礼なメギツネなの?!」
「本当に知らないんだもん。有名な人?」
「私はレノ一族の――」
「それってディーよりも有名な人?」
令嬢の言葉を遠慮なくブツ切りにしたキラに、背後のレンがプッと小さく笑いを吹き出した。
「は、はぁあッ?! 閣下に対してなんて無礼極まりない呼び方をしているのッ?! 何なの、この田舎者ッ!」
「うん。私は田舎者だから、ディーくらいに有名な人じゃないと知らないよ?」
キラがキョトンとしてみせると、それまで緊張を張り詰めていた衛兵達から「グフッ」と笑いを噛み殺す気配がした。
令嬢は怒りで顔が真っ赤だ。
「な、何なのこの無礼な小娘はッ! パッと出のメギツネの分際で閣下の寵愛を得たと思い違いをしているの?! 私は三年も前から閣下にお目通りをしているのよ!」
「? それで?」
「は?」
キラは令嬢の目を捉えたまま、悠然と小首を傾げた。
「だから、おねーさんはディーに求愛の口付けを何回したの?」
「ッ?!?! は、はぁぁあッ?!」
「え? してないの? なんで?」
「な、何を言って……ッ!」
「だっておねーさんはディーの番だって主張しているんでしょ? 三年も前からディーに求愛をしているんでしょ? それなのに求愛の口付けをしていないの?」
周囲では「あっ……」と状況を察した衛兵達と使用人達が密かに失笑している。
どんどんと場の雰囲気が変化していくのを感じたのか、令嬢は怒りでギラギラさせた目に殺意と呪力をこめてキラを睨み付けた。
「メ、メギツネの分際で何を強気に吠えているの?!」
「え? ディーは私に少なくとも三百回は求愛の口付けをしてくれたよ?」
「はッ……、はぁぁッ?! なんて無礼な虚言を吐いているのッ?!」
令嬢が叫んだのとほぼ同時に衛兵と使用人の何人かが「さんびゃくっ?!」「熱烈ぅ!」などと声をあげていた。
キラは未だにジッと令嬢の目を捉え続けている。
「ねぇ? おねーさんは三年の間でディーに何をしてきたの?」
「なッ……!」
「ねぇ、教えてよ。おねーさんはディーに何をしたの?」
「なッ」
「教えてよ、おねーさん」
「ッ」
「私のディーに、何をしたの?」
「ッ! こンのメギツネがあぁぁァァッ!!」
憎悪の叫びと同時に、令嬢から魔力が爆発して暴風が巻き起こった。
すかさずレンがキラと令嬢の前に割って入り、衛兵達が更に壁を作る。
令嬢の雄叫び。暴風音。詠唱。怒声。罵声。防具が擦れる金属音。
その混乱の中――……。未だにキラは、令嬢の目を淡々と捉え続けていた。
「――お許しくださいッ! お許しくださいッ!!」
「ギャアァッ!」
どこからか転がるように駆けてきた中年の貴族が、令嬢の髪を無理矢理掴んで頭を下げさせた。魔力の暴風がピタッと止む。
令嬢から意味を成さない怨嗟の羅列が聞こえるが、貴族はそのまま令嬢を床に引きずり倒すと、令嬢と共に床に自身の額を擦り付けた。
謝罪が向かう先はキラだ。
「番様ッ! どうか、どうか、お許しを――……ッ!」
「え? やだ」
令嬢との一方的な睨み合いを中断させられて不機嫌なキラは、番と呼ばれたことを否定しないまま脊髄反射で即答していた。
そこに聞こえたのは、コホン、と冷静沈着な咳払い。
見ると――、髪型も服装もまったく乱れていない家令ジルが、片眼鏡をクイッとさせて立っていた。
「上意。逆臣二名を捕縛せよ」
「ぎ、逆しッ……?! お、お許しっ、お許しをッ! フリューゲル閣下ッ、番様ッ! どうかお慈悲をッ!」
「ギャアァァッ!」
最側近であるジルからもたらされた夜鴉公の無慈悲な命令。衛兵達に拘束された貴族と乱入令嬢がズルズルと連行されていく。
廊下の向こうから様々な叫び声が聞こえなくなった頃――、ようやく場の雰囲気がフッ……と軽くなった。
レンがピョコンと猫耳を立ててキラに振り返る。
「やっぱり、お嬢さまと主さまはお似合いなのです!」
何だかレンはとっても嬉しそうだ。その場に残っていた衛兵と使用人達が何度も力強く頷いている。
そんな和やかな雰囲気の中……、ジルが頭痛を払いのけるかのように軽く頭を振ってからキラに向き直った。
「ではお嬢様、参りましょう」
「…………はぁい……」
ジルにそう促されたキラは、少しムスッとしながらも素直に応えた。
――そう。
キラにはディーの加護がこれでもかとばかりに盛られている。
キラがレンの制止を断って自ら騒ぎの場に行ったことも。令嬢から暴言を吐かれたことも。呪力と殺意を投げつけられたことも。何もかもすべてディーにはお見通し。
実際に応戦の途中からディーが魔法で物言いたげな《視線》を向けてきたのだ、が……。キラはあえてそれを無視して、令嬢との睨み合いを続行したのだった。
そしてこれからジルに案内されてキラが向かうのは……、ここからでも不機嫌なオーラをバリバリ放っているのがわかる夜鴉公の執務室だ。
「ディー、怒ってる?」
「閣下の殺気と怒気に当てられた配下のうち二十五名以上が緊急搬送された程度にはお怒りです」
「わぁ、それは大変だ」
キラのわざとらしい抑揚に、ジルはひっそりと苦笑をこぼした。




