「静かな決別」
金属がわずかに鳴った。ナッシュの手が短剣を持ち上げた瞬間、その指先はほんのわずかに震えていた。
だが、彼は顔を上げた。その目には涙も怒りもない。
ただ、自分の選んだ結末を、静かに受け入れようとする意志があった。
「……あなたのようにはなれなかった」
ナッシュの声は小さく、それでいて澄んでいた。
「最後の判断を、自分でした。それだけでも……多少、誇りを保てた気がします」
「それは、君の中の“正しさ”だ。誰にも否定はできない」
エリオットはそう言いながらも、目を細めた。
その言葉に、情ではなく“秩序”の価値を測る目を宿す。
《影の手》において、判断とは刃であり、遅れは死に繋がる。
そして何よりも恐ろしいのは、“善意から生まれる裏切り”だった。
数秒の沈黙の後――
ナッシュは、自らの胸元に刃を当てた。
突き刺す音は、ほとんどしなかった。
ただ、布の擦れる音と、息が漏れる微かな音だけが室内を満たした。
その場に崩れたナッシュの肩を、エリオットはしばらく見下ろしていた。
痛ましいとは思わなかった。哀れとも、残酷とも。
それはただ――役目を終えた静かな記号だった。
やがてエリオットは、報告書の一枚に自筆の署名を入れる。
「処理完了。対象、意思による自己処理。動機、独断と誤信による規律違反。国家秩序の維持を優先し、排除に至る」
それだけを書き、封筒に戻した。
ランプの灯が揺れていた。命の痕跡すら、無言の風に飲まれていく。




