「揺れる忠誠、ささやかな裏切り」
情報部《影の手》の中枢には、三重の扉で隔てられた“沈黙の間”と呼ばれる部屋がある。報告、査定、処断――すべてがそこで決定される。
その日の報告は、静かにしかし重く響いた。
「諜報員ナッシュが、王太子の婚約者・ミレーヌ・グレイスに接触を図った形跡があります」
クロエが言った。手にしているのは密書。暗号解読されたその文面の一部には、はっきりとこう記されていた。
“彼女は《影の手》に感づいている。もし利用できれば、王家の支配構造そのものを変えられる”
「……勝手な判断だな」
エリオットは、ただ一言だけそう漏らした。
声の温度は常より低く、眼差しはまるで彫像のように動かない。
ナッシュ――情報部の若手。実直で、勉強熱心で、エリオットにも幾度か助言を求めに来たことのある男だ。
けれど――それはすべて、“国家を裏切る行為”の免罪符にはならない。
「我が国を脅かすものは、排除する」
エリオットの口から、誰もが知るその言葉が落とされた瞬間、部屋の空気が変わった。
それは命令でも警告でもない。判決だ。
ナッシュの行動はまだ“裏切り”と断定できる段階ではない。だが、影の規律は曖昧な希望を許さない。
忠誠とは、完全であることが条件だ。
「彼には、直接会おう。確認の機会は与える。だが――それだけだ」
クロエは一礼し、静かに部屋を出ていった。
沈黙の間には、エリオットひとりが残される。
その背に、仄かに月明かりが差していた。




