第96話「産まれてくれて、ありがとう」
春の終わり。いよいよその日が訪れた。
結衣は痛みと闘いながらも、強く優しい母の顔を見せる。
涼也は彼女のそばでただ祈り、訪れる新しい命の誕生に胸を震わせていた。
夜が深まるにつれて、結衣の陣痛は どんどん強くなっていった。
涼也は震える手で結衣の手を握りしめ、できる限りの声で励ます。
「結衣ちゃん、もうすぐだよ。絶対に大丈夫。俺がそばにいるから」
「涼ちゃん……もう……これ以上続いたらどうしようって、怖くなっちゃう……」
涼也は、その言葉にぎゅっと手を握り返し、優しく言った。
「怖くても、一人じゃない。結衣ちゃんと赤ちゃんのために、俺は ここにいる」
やがて──
病室に、小さな命の産声が響いた。
「おぎゃあ、おぎゃあ──」
その瞬間、涼也の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「結衣ちゃん、よく頑張った……ありがとう」
結衣は疲れた体を横たえながら、震える手で赤ちゃんをそっと抱き寄せた。
小さな小さな手が、彼女の指をぎゅっと握り返す。
「かわいいね……涼ちゃん、これが私たちの赤ちゃんだよ」
「これから三人で歩いていこう。どんなことがあっても、ずっと一緒に」
──そして、翌朝。
窓の外には春のやわらかな光が差し込んでいた。
ベッドのそばで、涼也が少し緊張した面持ちで言葉を切り出す。
「ねぇ、結衣ちゃん。名前……決めてもいい?」
「えっ?」
「“律”っていう名前、どうかな。
顔を見たときに、ふと浮かんだんだ。落ち着いてて、でも芯が通ってて……そんな感じがした」
昨日までいろんな名前を考えていたのに、不思議と、この子の顔を見たら自然に“律”という響きが胸に残った。
結衣は、びっくりしたように赤ちゃんの顔をのぞき込む。
「律……うん。すごく、ぴったりな気がする。まっすぐで、芯があって、でも やさしくて……」
「俺たちの気持ち、そのまま込められると思ったんだ」
「うん、呼びたい。……りっくんって、呼ばせて?」
結衣がそっと、赤ちゃんの小さなほっぺに顔を寄せた。
「りっくん、よろしくね。私たちの大事な、大事な宝物」
その瞬間、律がふにゃっと笑ったように見えて、ふたりの胸にあたたかい何かが広がった。
涼也は少し照れたように笑って、結衣の呼び方に耳を傾ける。
「……なんか、いいね。結衣ちゃんの『りっくん』って呼び方、やわらかくて」
「うん。なんだかね……“涼ちゃん”って呼ぶのと、同じ感覚かも」
「え?」
「律って名前、大好きなんだけど……この子にぴったりな“あだ名”みたいに呼びたくなっちゃうの。“りっくん”って、あったかくて、愛しくて……つい、口から出ちゃうの」
涼也は、ゆっくり頷いた。
「……そっか。そういうの、すごくいいね」
──その日の午後。
助産師さんに促されて、結衣は少し照れながら母子手帳を開いた。
「名前……書いてもいいですか?」
「もちろん。律くん、ですね。素敵なお名前ですね」
結衣は「りっくん」と口にしながら、律の名前をゆっくりとペンで記す。
手元がほんの少し震えるのは、きっと嬉しさと誇らしさのせいだ。
そして数日後、二人は揃って区役所に足を運ぶ。
出生届の提出窓口で、律の名前が正式に登録されるその瞬間──
涼也がそっと結衣の手を握った。
「今日から“律”って名前が、この子の人生にずっと寄り添ってくれるんだね」
「うん。大事に、大事に……この名前と一緒に育ってほしいね」
やさしい光と、小さな未来が、そっと差し込んでいた。
家族三人の物語は、今、静かに始まったばかり。
お忙しい中、今日も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!