第11話 守れなかった約束
最後の扉を押し開けると、鼻を突き刺すような腐臭が、いきなり肺の奥まで入り込んできた。
「くっ、臭いっ……!」
辺り一面には、腐敗した死骸と糞尿がこびりつき、空気そのものが重く濁っている。
さっきまで胸の中にあった温かな決意が、一瞬で別の意味の熱気に包まれた。
「……しまさ。ここ、本当に通るの?」
隣でメアリが顔をしかめる。
その横顔は相変わらず美しかったが、この悪臭の中では、さすがのメアリも平静ではいられないらしい。
一本道の奥には、さらに巨大な扉が見えていた。
あれこそが、このダンジョンの主――“トムちゃん”が待ち受ける本当の最後の扉。
俺たちは迷わず、そこを目指した。
「メアリ、俺の背中に乗れ!」
「えっ、まさか……」
俺は腹に力を込める。
「移動おなら!」
「ブーッ! ブーッ! ブーーーッ!!」
連続噴射による爆発的な加速。
俺たちは風を巻き起こし、腐臭の一本道を一気に突き抜けていく。
メアリが背中で必死にしがみついているのがわかった。
「ちょ、ちょっと速すぎるわよ!」
「大丈夫だ! 俺を信じろ!」
「信じたいけど、いろんな意味で怖いのよ!」
音と匂いを残しながら突き進んだ俺たちは、ついに巨大で頑丈な扉の前へたどり着いた。
俺はメアリをそっと降ろし、扉に手をかける。
思いきり力を込めた。
「ぬおおおおおっ!」
だが、扉はびくともしない。
その代わり――。
「ブー、ピチピチ、アァ……」
やってしまった。
「……ああ。またやった……」
俺は静かにうなだれた。
メアリは一瞬だけ目を閉じ、それから女神のような微笑みを浮かべて、荷物袋から替えのパンツを取り出した。
「これで何回目よ、しまさ。ほら、替えのパンツ」
「ありがとう、メアリ」
俺はすぐに履き替えた。
彼女の優しさに、応えなければならない。
そして、こんなところで立ち止まっている場合ではない。
「開かないなら、壊すまでだ!」
俺はニヤリと笑い、腹の奥に残った全力のガスを溜め込んだ。
「おならインパクト!」
「ブゥゥゥーーー!! ドカァァーーン!!!」
轟音とともに、巨大な扉は木っ端みじんに吹き飛んだ。
凄まじい衝撃波が通路を揺らし、石壁に亀裂が走る。
「すご……。そんな威力、あり得るの……?」
メアリが呆然と呟く。
その顔には、驚きと呆れと、ほんの少しの尊敬が混ざっていた。
そして――。
「よく来たな、人間どもよ」
闇の奥から、重々しい足音が響いた。
一歩。
また一歩。
巨大な影が、ゆっくりと姿を現す。
そこにいたのは、一匹の巨大な犬だった。
十メートルはあろうかという巨体。
鋭い牙。
こちらを見下ろす、怒りに満ちた瞳。
「……お前が、“トムちゃん”か?」
俺は剣を構えながら問いかけた。
巨大な犬は、低く唸るように答えた。
「そうだ。“トム”という名は、かつて人間に飼われていた頃のものだ」
「なぜ人間を襲う? 共存の道もあったはずだ」
「共存? 笑わせるな」
トムは怒りに燃える瞳で、俺たちを睨みつけた。
「人間こそ、自ら争い、同胞を殺し、食うために家畜を飼い、屠っている。そんな連中に、俺の行いを否定する資格があるのか?
奪ってきた命の数では、お前たちの方が遥かに上だろう」
「くっ……ぐうの音も、いや、プウの音も出ない正論だ……」
俺は思わず歯を食いしばった。
トムは静かに語り始める。
「俺は、かつてある男に飼われていた。そいつは気分次第で俺に暴力を振るい、気まぐれに撫で、菓子を投げ与えた。
本当は、何度も喉笛を食いちぎってやりたいと思った。だが、できなかった。牙も力もなく、逃げた先で生きていく術もなかったからだ」
「でもお前……十メートルもあるじゃないか。誰がどうやって飼ってたんだ?」
「俺は、もともとミニチュアダックスだった」
「ミニチュアにも限度があるだろ」
「だがある日、ある人物から薬を飲まされた。体は肥大化し、力が湧き、知能は人間すら凌駕した」
「誰だ! お前にその薬を与えたのは!」
「教える義理はない。知りたければ、力ずくで聞き出してみろ」
その瞬間、空気が震えた。
トムが大きく息を吸い込む。
「ワン! ワン! ワンッ!!!」
咆哮が、空間そのものを揺るがした。
それはただの鳴き声ではない。
魂まで砕く、死の衝撃波――デス咆哮。
「危ないっ、しまさ!」
メアリが俺の前に飛び出した。
「メアリッ!」
叫んだときには、もう遅かった。
デス咆哮をまともに受けたメアリの体が、力なく崩れ落ちる。
俺は慌てて彼女を抱きとめた。
「メアリ……おい、しっかりしろ!」
返事はない。
彼女の胸に耳を当て、心臓の音を探す。
けれど、何も聞こえなかった。
「そんな……動いてない……?」
指先が震える。
さっきまで、俺の隣で笑っていた。
さっきまで、俺と一緒に生きて帰るはずだった。
さっきまで――結婚しようと言ってくれた。
「すまない……俺が、もっと強ければ……!」
涙は、まだ流さない。
湿らせるのはパンツだけで、十分だ。
俺はメアリをそっと床に寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。
胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
怒りではない。
悲しみでもない。
彼女を守れなかった自分への、どうしようもない悔しさだった。
俺は剣を握り直し、トムちゃんを睨みつける。
「行くぞ、トムちゃん」
腹の奥に、最後の力を込めた。
「次は、お前の番だ」




