第五節 血縁
第五節 血縁
彼女の名前は佐和というのだそうだ。栗林佐和。
彼女を通じて、僕が知らなかった真実や遠い昔の記憶が僕の意識の中に入って来た。それは佐和さんが僕に語りかけているかのような感覚だった。
最初に僕の意識の中に飛び込んできたのは僕が奈央と知り合った時の事だった。
学食のテラス席に座っていた僕に奈央が声を掛けてきた。
「ここいいかしら?」
僕は読んでいた本から目を放して声の主を見た。体中の血が騒ぐような感覚がしたことを思い出した。
「ど、どうぞ!」
彼女は両手で持っていたトレーをテーブルに置くと、軽く会釈をして席に着いた。
「お勉強の邪魔をしちゃったかしら?」
僕は慌てて読んでいた本を閉じた。
「いえ、大した勉強ではないんで」
彼女はクスッと笑ってトレーの中のサンドイッチを手にした。笑った理由はすぐに解かった。僕が閉じた本のタイトルを目にしたからだ。
『恋愛実践マニュアル』
僕の顔が一瞬で真っ赤になったのは言うまでもない。僕はその場でうつむいて、彼女が早く席を立つのを祈った。いっそ、僕の方から席を立とうか…。そう思って立ち上がろうとした時だった。
「はい!」
急に彼女が声を出した。僕が彼女の方を見ると彼女は手をあげている。
「立候補してあげる」
「えっ?」
「だって、彼女、居ないんでしょう?私が立候補してあげるわ」
僕は彼女の突然の言葉に固まってしまった。もしかしたら、何かの勧誘をされるのかもしれないとさえ思った。彼女を見た時に感じた体中の血が騒ぐような感覚はそれを予感させたからなのかもしれないと。
「本郷奈央。あなたは?」
「裕。栗林裕」
「じゃあ、ユタカって呼んでいい?私のことは奈央でいいよ」
「はぁ…」
その時のことを後になって奈央はこんな風に言った。
「そんなつもりはなかったのよ。勝手に手が動いて…。恋人に立候補するなんて自分でも驚いたわ」
考えてみれば、その時、テラス席は混み合っていたわけではない。たくさんの空席があった。奈央がわざわざ僕が座っている席に来たことが不自然だった。
この辺りの記憶は僕もはっきり覚えている。その時は奈央との出会いは偶然だったと思っていたのだけれど…。
「まさか!もう、この時からなの?」
「気付いたみたいね」
僕の意識の中で佐和さんが言った。
「私が引き寄せたのよ。どうしても奈央さんと親しくなりたかったから」
「どうして奈央だったの?顔が似ているだけじゃないって言ったよね」
「血の匂いがしたのよ」
「血だって?」
「そう。奈央さんの体の中に流れるあの人の血」
佐和さんが言う“あの人”とは日田の代官で西国郡代だった人のことなのだろう。奈央にその人の血が流れている?どういう事だろう…。奈央は生粋の江戸っ子のはずだ。僕は奈央の顔を眺めた。なおも意外だというような表情をしている。佐和さんは静かに微笑して話を続けた。
窪田鎮勝様は神奈川奉行所の定番役頭取取締の任を経て西国郡代になったの。元々は九州の出身で、かねてより九州への赴任を希望していたそうよ。
私が死んだ後に始まった戊辰戦争の頃には農兵を率いて幕府側に立って戦ったの。けれど、援軍も得られずに孤立してしまって…。
その辺りのことは知っている。小学校の自由研究で天領のことを調べたことがあったから。
「確か、部下を見捨てて江戸へ逃げちゃったんだよね」
「やっぱり、そんな風に思われている方が多いのね…」
「えっ?違うの??」
「本当のことは私にも分からない。けれど、あの人のことなら良く知っているわ」
天領である日田の代官所に軍隊と呼べる兵力は無く、鎮勝様は神奈川奉行所時代に学んだイギリス式兵法に倣って農民を中心に制勝隊という組織を作ったの。けれど、幕府軍は既に崩壊状態で九州の辺境にまで援軍を送る余裕などなかったのよ。
鎮勝様は天領の代官だったから幕府のために戦ったのだけれど、罪のない領民が無益な戦で命を落とすのを避けるために制勝隊を解散したの。
幕府あっての天領ですもの。その頃には代官所なんて意味のないものだったのよ。なまじ天領なんて幕府の看板なんか掲げているものだから新政府軍の絶好の標的にされたのよ。
隊を解散した鎮勝様は自身だけでも幕府のために最後の務めを果たそうと江戸へ戻ったのに違いないわ。
「そっか!鎮勝は江戸に来たんだね。という事は江戸に居る時に奈央のご先祖様と結ばれたのかな?」
佐和さんは柔らかな笑みを浮かべた。
「江戸ではそれどころじゃなかったはずよ。息子さんは鳥羽伏見の戦いで幕将として戦死しているし、新政府の人間に捕まったらただでは済まされなかったはずだから。奈央さんのご先祖様と知り合ったのは明治になってからよ。その頃、鎮勝様は静岡に移り住んでいたわ」
「あっ!」
そこで奈央が声をあげた。
「そう言えば、お母さんは静岡の出身だった!」
「そういうこと」
佐和さんがにっこり笑う。




