第一節 帰省
第一節 帰省
僕は栗林裕。九州の大分から上京して4年。就職先も内定し、バイトに精を出す勤労学生だ。同じ大学に通う本郷奈央とは恋人同士…。はっきりとそう言えればいいのだけれど、実情は友達以上恋人未満といったところ。
大学の学費は田舎の両親が出してくれている。けれど、下宿の家賃や生活費は自分でバイトして賄っている。それが東京へ出してもらうための条件でもあったからだ。
奈央はというと、根っからの江戸っ子で両親も下町育ちの幼馴染なのだという。父親が代々続く工務店の社長で不景気だとはいってもそこそこ羽振りはいいようで、奈央はそこの一人娘だった。
東京駅。東海道新幹線の改札前。僕は奈央を待っていた。携帯電話のディスプレイで時間を確認した。既に8時を過ぎていた。僕が次第にイライラしてきたころ、大きな声をあげて手を振りながら、奈央がこっちへ向かってくる。海外旅行にでも行くかのような旅行カバンを引きずって。
「ごめんなさい。寝坊しちゃったよ」
そう言うと、奈央は窓口へ向かった。
「二人並んで取れる席はありますか?」
係員が端末を操作して空席を確認する。
「10時10分発ののぞみならグリーン車ですけど取れますが…」
「じゃあ、それでお願いします」
奈央は躊躇することなく返事をした。お金を出してもらう身としてはグリーン車なんて恐れ多い。
「何もグリーン車じゃなくても…。自由席で充分だよ」
「なによ!自由席じゃ座って行ける保証はないでしょう?5時間も6時間も立ちっ放しなんて考えられないから。それとも裕だけ自由席に行く?」
「い、いや、それはちょっと…」
「じゃあ、私のやることにケチを付けないでちょうだい!」
「はい…」
何とも情けない話だが、仕方がない。奈央がそう言うのなら生まれて初めてのグリーン車の旅を満喫しよう。
大学も夏休みに入って、僕はバイトに明け暮れる毎日だった。久しぶりの休みを前にして奈央と安い居酒屋で一杯やった後の事だった。
奈央に異変が起きた。突然、何かに取憑かれたように僕に告げたと思いきや、急に僕の田舎の九州へ行こうと言い出した。僕は何が何だかわからないまま、奈央の言う通り、待ち合わせ場所の東京駅へやって来たのだ。
「10時10分発か…。まだ時間があるわね。ねえ、裕、朝ごはん食べてきた?」
「僕は普段、朝メシは食べないから」
「ふーん、でも、たまにはいいでしょう?きっと、彼女と二人で食べる朝食は特別だよ」
「彼女って…。本当にそう思っているのかな…」
「何か言った?」
「いや、何にも!」
「早く行くよ」
奈央は旅行カバンを引きずって歩き出した。
「あー!奈央、待ってくれよ」
僕は慌てて奈央の後を追った。
「ねえ、ところで裕、荷物はないの?」
実家に帰るわけだし、必要なものは全部そろっている。
「まあね」
「そう!じゃあ、ハイ」
奈央は自分の荷物を僕に預けた。
「普通は自分から申し出るものよ」
初めてのグリーン車。座席はゆったりとして快適だった。朝、早かったせいか、奈央は座席に着くとすぐに眠ってしまった。僕としては、この突然の里帰りにどんな意味があるのかを聞きたかったのだけれど、奈央がこれほど疲れた様に眠っているところを見ると、奈央の体にも何かがおこっているのかもしれない。取り敢えず、今はそっと寝かせておいてやろう。そのうちイヤでも聞かなきゃいけなくなる時が来るに違いないのだから。
列車が発車してから僕はずっと窓から景色を眺めていた。三島を過ぎたあたりからきれいな富士山がくっきりと見えた。
「奈央、富士山が見えるよ!」
僕の興奮した声に奈央は一瞬だけ目を開いて窓の外を見た様だけど、すぐにまた目を閉じた。名古屋に到着する頃には僕も眠ってしまったよだ。目が覚めたのは広島を過ぎた辺りだった。僕は柔らかなものに触れている手の感触に気が付いた。奈央が僕の手を握りしめていた。僕はその手に少しだけ力を込めた。奈央は相変わらず目を閉じているけれど、まだ眠っているわけではなさそうだった。僕は奈央の体をそっと引き寄せた。奈央はされるがままに体を寄せてきた。
『間もなく終点博多に到着いたします…』
車内アナウンスが告げると、奈央はさっと僕の手を振りほどいて、大きく背伸びをした。
「あー、良く寝た」
そして、照れを隠すように奈央は言った。僕たちは博多駅のホームに降り立った。
博多駅から在来線の鹿児島本線に乗り換えて久留米まで行き、更に久大線で日田まで来た。既に夕方の6時近かった。そして、気のせいかもしれないけれど、日田に着いて…。と言うより日田に近付くにつれて僕は何となく落ち着けずにいた。
「やっと着いたわね。裕の家って駅から遠いの?」
奈央の声に僕はハッとして我に返った。
「あ、えーと…。歩いて10分くらいかな」
「今日、帰ることは言ってあるの?」
「いいや」
「うそ!じゃあ、急に訪ねたりしちゃ、お家のひと困るんじゃなない?」
「大丈夫だよ」
僕は奈央の荷物を引きずりながら実家まで歩いた。奈央は僕の横に並んでついて来た。
「奈央は今日、どうするんだ?」
「どうって?」
「どこか別にホテルとか取ってあるのか?」
「何を言ってるのよ!裕の家に泊めてもらうつもりだけど。ダメかしら?」
「まあ、大丈夫だけど…」
「大丈夫だけど何?」
「いや、なんでもない」
そうこうするうちに、大きな八百屋の前に来た。僕は立ち止まり、奈央に告げた。
「ここ」
青果・大鎌。僕の実家だ。
「大鎌?ふーん…」
奈央は店の看板を不思議そうに見上げた。まあ、それも仕方がないと思う。何しろ、八百屋にしては“大鎌”なんてへんてこな店名だから。




