第9話:結びの記憶(前編)― 境界線の向こう側
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事務所の冷たい床に転がっていた銀のペンを、結は震える指先で拾い上げた。
高橋の罵声が遠くで鳴り響いているが、今の彼女には届かない。指先に触れる冷硬な金属の感触。その1本のラインが、結をあの日――すべてが瓦解した、あの病室へと引き戻していく。
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2022年8月。外は、肌を刺すような熱気と、どこか遠くで鳴り響く蝉の声に包まれていた。
だが、病院の特別病棟の1室だけは、凍り付くような沈黙が支配していた。窓の向こうで揺れる街路樹の緑さえ、今の結には遠い世界の、色彩を失った記号のようにしか見えない。
「結。落ち着いて、よく聞いてね。……あなたに、本当のことを話さなくてはいけない」
莉那の声は、湿った砂のように掠れていた。彼女の隣には、複雑な表情を浮かべる恵と、彫像のように冷徹な眼差しを向ける摩耶が立っている。莉那は何度も呼吸を整えようとしたが、その指先は膝の上で激しく震えていた。その震えが、今から放たれる言葉が結の人生を根底から破壊するものであると、静かに告げていた。
「私は、あなたの実の母親じゃないの。……あなたの本当の母親は、私の姪の薫よ。恵の姉であり、あなたの従姉妹にあたるから、知っているわよね」
結の思考が、真っ白なノイズに包まれた。
(……お母さんが、お母さんじゃない?)
今まで積み上げてきた17年間の記憶が、足元から音を立てて崩れ去っていく。莉那の温かい手、作ってくれた料理、叱られた記憶。それらすべてが、砂の城のように形を失っていく。
視界が急速に狭まり、世界から色彩が剥がれ落ちていく。自分という存在の根幹を支えていた莉那との絆が、実は誰かの身代わりを演じるための精巧な舞台装置に過ぎなかった。愛されていたと信じて疑わなかった日々のすべてが、他人の人生をなぞるための「まやかし」であったという事実は、結の心に修復不能な亀裂を走らせた。目の前にいる女性は、もはや「母」ではなく、自分の人生を嘘で塗り固めた加害者のようにさえ映った。
「薫は、17歳の時にあなたを産んで、そのまま……。私は、薫の代わりにあなたを育てることを決めたの。あなたを、薫の哀しい運命から守りたかったから」
莉那の言葉が、結の胸を鋭く刺す。
17歳。それは結にとって、実母である薫がこの世を去った、呪わしい年齢だった。
母が逝った年齢に達した自分の体。その内側で、得体の知れない何かが静かに、だが確実に命を削り取っていく感覚が、結を底知れぬ孤独へと追い込んでいた。背中の奥深く、神経を逆なでするような鈍い疼きが、血に刻まれた「逃れられない終わり」が刻一刻と迫りつつある。
(守りたかった……? 嘘をつき続けて、私を騙していたのに?)
莉那の言う「守る」という言葉が、不気味なほど白々しく結の鼓膜を打つ。真実から目を逸らさせ、自分を「薫の影」として閉じ込めておきたかっただけではないのか。自分を愛していたのではなく、自分の中にいる「薫」を守りたかっただけではないのか。行き場のない怒りと、それ以上に深い絶望が、結の喉元を焼き尽くす。
莉那は震える手で、大切に包まれていた一本の銀色のペンを差し出した。
「これは薫が、最期まで握りしめていたもの。彼女はね、この病に屈することを拒み、最期の1秒まであなたの未来を書き換えようとしていた……」
窓から差し込む無機質な光が、ペンの金属軸を白く照らし出し、異質なほど鋭い輝きを放っていた。結は、指先が触れることさえ恐ろしいと感じながら、その細いラインを凝視した。
(これが、あの人の……)
一度も会ったことのない、自分を生んだ女。その遺品は、結にとって温かな形見などではなく、自分もまた同じ場所で朽ち果てることを義務付ける「死の予約票」だった。この冷たい輝きが、自分のこれから歩むはずだった人生を暗闇へと塗りつぶし、母と同じ「17歳」という境界線で世界を断絶してしまう。その確信に、結の肺から酸素が消え、視界が歪んだ。
「許して、結……」
莉那が、泣き崩れながら結に縋り付こうとする。その必死な懇願も、今はただ、自分という器を通して死者を追い求めるだけの醜い執着にしか聞こえない。
「触らないで!」
結は、莉那の手を強く振り払った。その時の莉那の、胸を裂くような悲鳴。それすらも、今の結には遠い世界の出来事のように感じられた。
(お母さんの代わりとして私を抱きしめるなら、もう二度と触れないで。私は、誰かの記憶を埋めるための道具じゃない。私は、私でさえないというのなら――)
「もういい……」
結の掠れた声が、無人の空間に溶けていく。喉の奥が焼け付くように熱い。
「もう、いいから。……1人にして」
結は、震える唇を噛み締めた。莉那たちの顔を見ることができない。視界が涙で歪み、部屋の輪郭が泥のように溶けていく。
そんな結の絶望を見透かすように、摩耶が一歩前へ踏み出した。その感情の消えた瞳が、逃げ場のない真実を結の魂に刻みつけてくる。
莉那が耐えかねたように泣き崩れ、恵がその肩を支えて、逃げるように病室を出ていく。バタン、と静かに閉まったドアの音が、結を世界から完全に切り離した断絶の合図のように響いた。だが、摩耶だけはその場に残り、感情の消えた瞳で結の絶望を凝視していた。
結の手の中に残された銀のペンは、氷のように冷たく、そして恐ろしく重かった。
自分は何のために、この年まで生き永らえてきたのか。何のために、吐き気に耐え、皮膚を貫く針の痛みに耐え、絶え間なく続く苦痛の波をやり過ごしてきたのか。すべては、この絶望に辿り着くための、無意味な前奏曲に過ぎなかったのか。
世界から色が消え、結はただ、手の中にある「呪いの証」を見つめることしかできなかった。心臓が動くたびに、母から引き継いだ死のカウントダウンが、静かに、確実に、その音を速めていた。
ふと、病室を支配する閉塞感に耐えきれなくなる。ここではない、もっと高く、もっと境界線の近くへ。この血の流れを、この重すぎるペンの感触を、すべて無に帰すことができる場所。
(……あの上なら、すべてを終わりにできるのかな)
無意識のうちに視線が天井の向こう、突き抜けるような空へと向かう。
彼女は、ただ一人、静寂の中に堕ちていった。手の中にある冷たい金属の重みを、この世で唯一の確かな感触として握りしめながら。
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