第10話:結びの記憶(中編)― 灰色の屋上
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病棟の非常階段を上がる結の足取りは、まるで壊れた人形のように危うかった。一段上るごとに、肺から酸素が失われ、心臓が焼け付くような熱を持って悲鳴を上げている。だが、それすらも今の彼女には、自分の身体が自分のものではないような、他人事の痛みのように感じられた。
(……お母さんが、偽物だった。私を愛していたんじゃなくて、私の中に死んだ人を重ねていただけ。私の17年間は、誰が書いた台本だったの? 私という人間は、最初からどこにもいなかったんだ)
17歳。母・薫が逝った年齢。自分もまた、母と同じ「死」という出口へ向かっているのだ――そう確信した時、結の心は安らぎに近い虚無に満たされた。
(もう、いい。お母さんと同じ場所に行けば、この空っぽな物語も、全部終わりにできる。これ以上、誰かの面影を演じ続ける必要なんてないんだから)
屋上のドアを押し開けると、湿った鉛色の風が結の乱れた髪を容赦なく叩いた。8月の、肌にまとわりつくような不快な熱気が、かえって世界の現実味を奪っていく。視界の端で揺れる灰色の雲は、まるで出口のない監獄の壁のようだ。空は淀み、都会の喧騒が遠くのノイズのように消えていく。コンクリートの縁に立ち、遥か下の地面を見下ろす。そこにあるのは永遠の静寂だ。
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結がそこに両手をかけ、意識を暗闇へと沈めようとした、その瞬間だった。
「……あんた、本気で死ぬつもり?」
背後で氷を砕くような声がした。振り返ると、そこには摩耶が立っていた。感情を完全に削ぎ落とした瞳。その手には、結の膨大な治療費の明細と、親子関係の真実を綴った、血の色に近い赤のファイルが握られている。
「……摩耶さん、邪魔をしないで。私はもう、疲れたの」
結の声は、風にさらわれて消えそうだった。
「何もかも、終わらせたいの。ずっと信じていたお母さんが、本当のお母さんじゃなかったなんて。私は自分の人生だと思っていたものさえ、全部偽物だったの? 私は……ただの偽物の娘だったの?」
(喉の奥が熱い。叫びたいのに、言葉が形にならない。お母さんが向けてくれた笑顔も、あたたかな手も、全部「薫」という死者へ向けられたものだった。私は、その残像を映し出すための器でしかなかったんだ)
結の痛切な問いに、摩耶は一歩も引かず、冷酷な笑みを浮かべた。
「だから何? 血の繋がりが何だって言うの。あんたが生まれた時から、誰よりも愛情を注ぎ続けていた莉那さんは、紛れもないあんたの母親よ。生物学上の事実を隠していたことと、母親としての真実は別物。あんたは、自分の都合のいい解釈で、その愛を切り捨てようとしているだけよ」
「でも、私死ぬんでしょ。薫さんみたいに……」
結は嗚咽を漏らした。
「この病気で。結局、私は同じ運命を辿るだけ。私が生きていたって、誰も救われないし、何も変わらない……」
(私の体には、あの人と同じ終わりの時間が刻まれてる。結局、私はただ死ぬためだけに生まれてきたんじゃないの? 17年かけて、死に向かって歩かされていただけじゃないの?)
摩耶は鼻で笑い、突き放すように言った。
「医学の進歩を馬鹿にしないで。今は薫の時とは違う。あんたは今、最先端のゲノム解析と、潤沢な資金による治療を受けている。薫が死んだのは、時代と技術の限界よ。あんたの命は、彼女の『死』とは別の条件で動いている。それを放棄するのは、あんたを支えてきた人々の努力に対する侮辱よ」
結は言葉に詰まった。言い返そうとしたが、喉が引き攣る。摩耶はさらに残酷なほど論理的に畳み掛ける。
「それでもどうしても死にたいなら好きにしなさい。私の知ったことじゃない。その代わり、死ぬ前にあんたという人間に注ぎ込んできた資金、そのすべてを返してからにしなさい。1円の端数も残さず、地獄まで取り立てに行ってあげる。……あんたの命は私たちの投資対象であり、ただの『負債』なのよ。負債が勝手に消えることを、債権者が許すと思っているの?」
(地獄……。そうか、私の人生は、もうとっくに地獄だったんだ。死ぬことさえ、私の自由にはならないんだね。私は死ぬことさえ許されない、ただの「モノ」として生かされるんだ)
摩耶の言葉は残酷で、けれど妙なほどに「生」を強制していた。それは「あんたにはまだ、生きる価値(返済能力)がある」という、摩耶なりの極端な肯定に聞こえたからだ。
結はフェンスから手を離し、濡れたアスファルトに崩れ落ちた。死ぬことすら許されない。自分は生きるという苦役を背負わされた、負債という名の「生」を強制されている。コンクリートの冷たさが、這い上がれない奈落の底を象徴しているようだった。
「明日からは、また地獄のようなリハビリが待っているわ。……逃げ出したいなら、地獄の底からでも引きずり戻してあげる。あんたが『利益』を生むまで、その心臓を止めさせはしない」
摩耶は冷たく背を向け、去っていった。
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屋上に一人残された結は、崩れ落ちるように膝をついた。その時、非常階段の扉が激しく開く音が響いた。
「結!」
荒い呼吸とともに飛び込んできたのは、莉那と恵だった。2人は屋上のフェンスに寄りかかる結の姿を認め、一瞬だけ安堵で足が止まる。しかし、結のただならぬ様子を見て取ると、莉那は絶叫するように駆け寄り、震える結の肩を力いっぱい抱きしめた。
「もう二度と、あんな真似しないで……!」
恵も涙を流しながら、崩れ落ちる結の傍らに跪く。結は、自分を抱きしめる莉那たちの体温を感じながら、ただ静かに懐の銀のペンを握りしめた。
(あたたかい。……でも、このぬくもりさえ、今はただ重い鎖のようにしか感じられない。私はこれから、何を信じて呼吸を続ければいいの?)
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