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スマイルテイクアウト  作者: 佐伯俊哉


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第11話:結びの記憶(後編)― 声の温度

ご覧いただきありがとうございます!

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 病室を満たすのは、窓の外で降り続く雨の音と、莉那と恵の規則正しい寝息だけだった。

 屋上での激動が、結の心に深い傷痕を残していた。摩耶の冷酷な言葉。「あんたの命は負債よ」という、人間性を剥奪するような宣告。そして、莉那と恵が自分を抱きしめた時の、あの必死な体温。それらが混ざり合い、結の頭の中で重苦しく脈動している。


 (……私は、生きていてもいいの? それとも、ただ生かされているだけなの?)


 消灯後の病室で、結は1人、天井の闇を見つめていた。

 莉那と恵は、結を屋上から連れ戻した後、その身を案じるあまり病室を離れようとしなかった。2人は互いに椅子を並べ、結の手を交互に握りしめたまま、極限の緊張から解放されて今は深い眠りに落ちている。窓を打つ雨粒の音が、心拍計の規則正しい電子音と重なり、この部屋が外界から隔絶された水槽のように思えた。


 結は、莉那の手を見つめた。

 白く細い指先が、掛け布団の端を、まるで二度と離さないとでも言うかのように力強く握りしめている。その指は微かに震えており、眠りの中でも結を失う恐怖と戦っていることが分かった。

 (……私は、何をしていたんだろう)


 結の胸に、じわりと熱いものがこみ上げてきた。

 屋上で、自分が莉那たちに向けた拒絶の言葉。あれほど自分を愛し、命をかけて守ろうとしてくれた莉那たちに対し、あろうことか「自分の人生は偽物だ」と切り捨て、屋上から身を投げようとした。


 (お母さんは、死んだ薫さんの代わりを演じていたんじゃない。私を、私自身として愛して、本当の「お母さん」になろうとしてくれていたんだ。私は自分の痛みにかまけて、この人の真心を殺そうとした……。摩耶さんの言う通り、私は最悪な人間だ)


 あの時、莉那が泣き叫びながら自分を抱きしめた光景を思い出す。結は、自分の身勝手さが莉那と恵にどれほどの恐怖を与えたのかを考え、罪悪感に押しつぶされそうになった。


 ***************************************


 そんな時、結は枕元に置かれた銀色の輝きに目を留めた。

 屋上から戻り、落ち着きを取り戻した際、莉那が「銀のペンと一緒に、いつかあなたが自分自身の力で立ち上がろうとする時に託そうと思っていたものよ」と言って、そこに置いたものだ。


 結は震える手で、その古びたガラケーを枕元から手に取った。17年前の遺物。液晶画面には細かな傷がつき、ボタンの文字も掠れている。だか、莉那が今日この時のために、ずっと大切に手入れを欠かさなかったことが伝わってくる。充電器から外し、手に取ると微かな熱を持っていた。その掌から伝わる重みは、摩耶が言った「金銭的な負債」などよりも、ずっと重く、切実なものに感じられた。


 結はイヤホンを耳に差し込み、震える指で再生ボタンを押した。呼吸を止め、ノイズだらけの闇に耳を澄ます。


 『……もし、これを聴いているのが結なら。ごめんね。お母さんは、あなたの顔をちゃんと見ることもできないまま、いなくなるかもしれない』


 結の心臓が、大きく跳ねた。

 それは摩耶の冷徹な定義とはかけ離れた、痛いほど人間らしい声だった。莉那が見せてくれた写真の中にある、どこか遠くを見つめる「従姉妹の薫」としての断片的な記憶。その静かな姿からは想像もできないほど、切実で、ありのままの母親の声。


 (……お母さん。この声は、私を呼んでいる。数字でも、負債でもなく、結という名前を……)


 『結。もしあなたがこれを聴いているとしたら、私はもういないかもしれない。ごめんね。あなたは私の希望よ。お母さんは、何もしてあげられないけれど、莉那さんやメグが、きっとあなたを支えてくれる。だからお願い、強く生きて。誰かの言いなりになるためじゃなくて、あなた自身のために』


 ノイズの向こうで、母が小さく息を吸い込む。それは、命を繋ぎ止めるための、最期の、懸命な呼吸の音だった。


 『……莉那さん、メグ。結のことを、どうか……。あの子が、自分の人生を、自分の足で……』


 音声はそこで途切れた。


 ***************************************

 

 結の頬を、とめどなく涙が伝った。

 母は自分を愛していた。自分を無事に産み落とせるかさえわからなかった母が、死の恐怖に震えながらも、それでも声を遺し、未来へ繋ごうとしていた。


 自分は、ただの「利益を生む負債」ではなかった。莉那が自分をこれほどまでに守ろうとするのも、恵が涙を流すのも、すべては母が命を削って遺した、祈りにも似た「希望」を守るためだった。


 (私は、偽物なんかじゃない。お母さんの命を削って、ここにいる。それなら……私は死ぬわけにはいかない。摩耶さんの地獄に、負けてたまるもんか)


 結は涙を拭い、懐から銀のペンを取り出した。

 月光に似た冷たい輝きを放つこのペンは、母から莉那たちへ、誠実な感謝と共に託されたもの。母が命を削って遺してくれた、唯一の「武器」だ。ペンを握る手の震えは、いつの間にか止まっていた。


 結はベッドサイドのノートを繰り、真っ白なページに震える手で一言だけ書き留めた。


 『運命は、変えられる』


 窓の外では、夜明けを告げる青い光が、灰色の空を少しずつ浸食し始めている。

 結は銀のペンを固く握りしめた。

 もう、死を待ち望んでいた自分はどこにもいない。地獄のようなリハビリも、大人たちの欺瞞も、すべてこのペンの先で解き明かしてやる。


 (私は私のために生きる。そのためなら、私は喜んで負債になってやる。そして、その負債を、あんたたちが後悔するほどの「毒」に変えて返してあげるわ、摩耶さん)


 結の瞳に宿った光は、もはや絶望の昏い色ではなかった。それは、これから始まる孤独で熾烈な戦いへの、確かな決意の灯火だった。


最後までお読みいただきありがとうございます。

本日より毎日更新予定です。

次回も18:20に更新予定です。


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