第12話:商品管理課の檻
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「成瀬。聞いてんのか?」
2025年7月4日。午前10時。
高橋課長の苛立ちを含んだ声が、2F事務所フロアの冷え切った空気を切り裂いた。
私は床に落ちた銀のペンを慌てて拾い上げた。指先が金属の冷たさに触れる。ポケットの底にしまい込み、その硬質な感触を何度もなぞった。母が遺した、私の唯一の守り神。これを失うことは、あの日、病院の屋上でお母さんや恵さんとの繋がりを再確認した、あの魂の約束を断ち切られるのと同じだ。
2022年のあの夏。高校2年生で休学中だった、絶望の淵にいたあの日から、もう3年が経とうとしている。しかし、2025年7月の今、私はNEXUSITEの子会社へと追いやられ、パーテーションで区切られただけのこの殺風景な「商品管理課」のデスクで、再び現実という名の檻に閉じ込められていた。
「おい、そこ。何してる。さっさと座れ」
私は急いで立ち上がり、指定されたパイプ椅子に腰を下ろした。震える手を膝の上に隠す。高橋はデスク越しに、私を品定めするような冷酷な視線を向けていた。2日前、初めて1Fの現場フロアに出たときは、リハビリ中の足の痛みを隠して立っているだけで精一杯だった。それなのに、今の高橋の目は、私を「排除すべき異物」として見ている。
「……で、どうするんだ。お前、初日は見る影もなかったトロい作業員だったはずだ。それが急に、昨日から今日にかけての作業効率は……他の古株を追い抜いて全拠点トップだ。誰に教わった? システムの裏口でも使ったのか」
心臓が跳ね上がった。私は俯いたまま、ポケットの中でペンの端をぎゅっと握りしめる。不正なんてしていない。ただ、昨日からハンディ端末の反応が妙に良くなり、画面に表示される最適化されたルート指示に従って動くだけで、広大なピッキングエリアでの作業が驚くほどスムーズになっただけだ。その理由すら分からずに必死でこなした結果が、今の数字なのだ。
「……答えないのか? 無言は肯定ととるぞ」
「……違います。私は、ただ……端末に表示される指示に従って、ひたすら作業を繰り返しただけです。手順を間違えないよう、必死に……」
「端末の指示? お前、システムが勝手に効率化なんてするわけねえだろ。佐伯係長がお前を特別扱いして情報を流してるのか? それとも、俺の知らないところで裏工作が動いてるのか」
佐伯係長。薄いパーテーションの向こう側、システム保守課のブースにいる彼が? 私は言葉に詰まった。彼が私の端末に何かしているという確証はない。でも、拠点のネットワークを保守しているあの人の静かな視線だけは、どこか私を外から見守っているような気がした。高橋の疑念は、私だけでなく、隣接するエリアにいる佐伯係長にも向けられている。
「……違います。佐伯係長は、そんな……」
高橋が不機嫌そうに舌打ちをし、デスクを乱暴に叩いた。その音は、仕切りの向こうのシステム保守課にも響いたはずだ。
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高橋がゆっくりと椅子から立ち上がり、デスクを回って私の背後に回った。事務所内の視線が背中に刺さるのを感じる。高橋は、私の椅子の背もたれに覆いかぶさるようにして、その顔を私の耳元まで近づけた。
鼻をつく、安っぽい整髪料と煙草の混ざった不快な臭い。
「なあ、成瀬」
高橋は耳元で低く、吐息を混ぜるように囁いた。周囲には聞こえない、二人だけの毒だ。
「その『優秀さ』を維持するためなら、お前、何でもするんだろ? 俺の指示に従って、夜の残業も……特別指導も受けるなら、その裏の不正は不問にしてやってもいい。……誰にも言わなきゃ分からないだろ? 俺とお前だけの、秘密だ」
耳をなぞるような吐息に、強烈な吐き気が込み上げる。これは業務効率の話ではない。私の支配権を奪おうとする、彼の卑劣な手段だ。かつて夜の世界で女たちを支配してきた摩耶の冷徹さとは違う、もっと卑屈で、湿り気を帯びた悪意がそこにはあった。
「……課長、それは」
「選べと言ったんだ。このまま不正の追及を受けて会社を追われるか、俺の指導下で『従順な社員』として可愛がられるか。お前、賢いなら分かってるよな?」
高橋の脂ぎった手が、私の肩に置かれようとした。その瞬間、太ももに当たるポケットの中のペンが私を現実に繋ぎ止める。
――大丈夫だ、慌てることはない。
この事務所に呼び出される直前、2Fの廊下ですれ違った際に、佐伯係長が周囲を警戒しながら低く言った言葉が脳裏をよぎる。『もし、何か困ったことがあったら。ハンディ端末の「ヘルプ」キーを長押ししてくれ』。今の私には、唯一の縋る先がある。
「……課長」
私は勢いよく椅子から立ち上がり、彼の距離感から逃れるように一歩後退した。
「私の作業の結果は、すべてシステムにログとして残っています。私が勝手に操作した覚えはありません。もし不正とおっしゃるなら、正しい手順で調査してください。……根拠のない理由で閉じ込め、指導と称して時間を奪うのは、業務妨害ではないのですか」
私は震える指先を端末の側面に滑らせ、隠された『ヘルプ』キーを強く長押しした。
「は? 今、なんて言った」
「私は、自分の仕事の結果を説明しただけです。これ以上、根拠のない指導は受けられません」
高橋が怒鳴ろうと口を開いた瞬間、私の手元でハンディ端末がかすかに電子音を鳴らし、画面が切り替わった。高橋はその変化を見て、動きを止める。
画面には、私にも理解できない複雑なコードが奔流のように流れ出している。有明の拠点全体を覆う高速Wi-Fiの波に乗って、誰かがこの檻を壊そうとしている。何かが始まる。私を支えてくれる、見えない誰かの力が。
最後までお読みいただきありがとうございます。
次回も18:20に更新予定です。
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