第8話:静かなる侵食
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2階、システム保守課。
窓のないモニタールームには、デスクの下で24時間稼働し続けるワークステーションの排熱が、じっとりと重い空気となって滞留している。
防音扉を隔てた隣のサーバー室から漏れ出る、精密機械を冷やすための空調音が、耳鳴りのような低い唸りを立てていた。俺は、自身の指先に伝わるキーボードの無機質な反発だけを頼りに、こみ上げる殺意をコードへと変換し続けた。
(見ているぞ、高橋……)
メインモニターには、成瀬結の端末から送られてくる作業ログが流れている。高橋が突きつけた「特別指導」。それは指導などという高尚なものではない。現場の作業員を事務所という閉鎖空間へ隔離し、逃げ場を奪って精神を摩耗させる、ただの「私刑」だ。
かつて加藤に会社を奪われ、プライドを粉砕された高橋は、その傷を癒やすために自分より弱い存在を求めている。その醜悪な生存本能が、今、結に向けられている。
俺は保守用権限を使い、システムの裏口を静かに開いた。高橋の管理端末にフォルダを偽装し、結の端末から送られてくる音声と操作ログを自動転送する。
今の俺にできるのは、このデジタルな檻の中で、奴の罪を逃れられないログとして積み上げることだけだ。
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翌朝。事務所の空気は、鉛のように重く、粘ついていた。
結の顔色は、昨日よりもさらに透き通るほどに青白い。商品管理課のフロアへ入るなり、高橋がわざとらしく大きな声を張り上げた。
「成瀬。昨日言った通りだ。現場の作業は今日までだ。午前10時、事務所に来い。みっちり教えてやる」
「……はい」
結の震える声が、静かなフロアに弱々しく響く。彼女は怯えたように肩を縮め、力なく頷いた。その姿を視界の端に捉えながらも、俺は冷徹な監視者を装い、キーボードを叩き続ける。
給湯室へ向かう振りをして、彼女のデスクの横を掠めた。彼女は電源の落ちたハンディ端末を、まるで命綱のように両手で握りしめている。
「……成瀬さん」
俺は足を止めず、隣を歩く誰にも聞こえない低音で囁いた。
「もし、何か困ったことがあったら。ハンディ端末の『ヘルプ』キーを長押ししてくれ。ログ解析担当として、すぐに対応できるように設定しておく」
結が、弾かれたように顔を上げた。
「……えっ」
「大丈夫だ、慌てることはない。俺を見ろ」
俺は彼女と視線を合わせないまま、続けた。
「今の君に必要なのは、怯えることじゃない。正確な記録だ。……行け」
結の喉が小さく動いたのが分かった。俺は彼女の返答を待たず、そのまま歩を進めた。 背後で、高橋がわざとらしくパイプ椅子を引く乾いた音が、静かなフロアに鋭く、不吉に響いた。
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午前10時。事務所、商品管理課エリア。
俺のデスクがある保守課と、高橋の縄張りを隔てているのは、透かしの入った薄いプラスチックのパーテーション1枚だけだ。
外界の喧騒が遮断されたこの空間では、奴の椅子が軋む音、書類をめくる音、誠に獲物を前にした下卑た呼吸音までもが、隠しようのない悪意となって俺の鼓膜を侵食してくる。
自席に戻った俺は、メインモニターを監視モードへ切り替えた。
パーテーションの向こう、高橋のデスクに向かい合って座る、結の小さな背中。
高橋はファイルを机に叩きつけ、獲物をじっくりと値踏みするように身を乗り出していた。
「さて、成瀬。まずは君の、その『異常な』数字の根拠からじっくり聞かせてもらおうか」
スピーカー越しに届く高橋の声は、耳元を這い回る害虫のように不快だ。
(異常? 異常なのはお前の脳内の方だ、高橋)
俺は特定のキーに指を添えたまま、モニターの端で不規則に、そして急激に跳ね上がる結の心拍ログを凝視した。BPMが120を超えると、警告の赤が画面上で点滅を始める。
(落ち着け、結……。深く呼吸をしろ)
高橋が端末を操作し、彼女の昨日の実績データを改ざんしようとするたび、俺が仕掛けたダミープログラムが奴の入力を無効化し、エラーコードを吐き出させる。
「……チッ。何だ、このクソ端末は。成瀬、お前、何か変な操作をしたんじゃないだろうな?」
「いえ、私は……マニュアル通りに……」
「マニュアル? 口答えするな! お前のせいでシステムがバグを起こしてるんだ!」
高橋の怒声が響くたび、パーテーションが微かに共振し、結の肩が大きく跳ねる。
だが、彼女は折れなかった。膝の上で、彼女の指先が何かを強く握りしめているのが見える。
(そうだ、結。そこは譲らなくていい。お前の正しさは、この俺が証明してやる)
高橋は端末を睨みつけ、苛立ちのあまり机を蹴った。
ゴン、という鈍い衝撃音と共に、結の手元から銀色のペンが床に転がり落ちた。
「あ……」
結が慌ててそれを拾い上げる。蛍光灯の光を反射して、古ぼけた銀色の軸が、まるで意志を持っているかのように鋭く輝いた。彼女はそのペンを、胸元でぎゅっと抱きしめる。 その瞬間、彼女の心拍ログが、わずかに、だが確実に安定を取り戻した。
(守っているのは、俺の方か……? それとも……)
俺はモニター越しに、高橋という悪意が、結という静かな光に焦がされ、その正体を暴かれていく様子を、淡々と、だが執拗に記録し続けた。
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