第23話:雌伏の毒
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2025年10月。
真実を知って3ヶ月が経過した。
西麻布を後にし、始発の電車に揺られて湾岸へと向かう。車窓に映る自分の顔は、3ヶ月前のような「死人」のそれではない。だが、だからといって「英雄」になったわけでもない。俺は今、最愛の娘の命を啜りながら肥大する加藤の「城」へ戻ろうとしている。
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WFC(湾岸フラッグシップ・センター)B棟。
外気と完全に遮断され、24時間365日、一定の温度と湿度に管理されたこの巨大な箱の中には、季節感など微塵も存在しない。1階の搬入口では、ひっきりなしに大型トラックが横付けされ、重低音の唸り声を上げている。2階の事務所に足を踏み入れると、埃と安っぽい芳香剤、それから焦燥感が混じり合った、いつもの濁った空気が俺を包んだ。
「おい佐伯!朝イチの入庫件数、ORIONのダッシュボードと合ってねえぞ。早く修正しろ!」
高橋課長が、脂ぎったデスクを拳で叩きながら怒鳴り散らす。
「……申し訳ありません、高橋課長。すぐにログを照合します」
俺は反射的に、卑屈な笑みを浮かべた。俺は現場での「無能な係長」を完璧に演じ抜き、高橋の罵詈雑言を受け流す術を身につけていた。
摩耶の前で見せる牙は、今はまだ誰にも見せてはならない。この窓ひとつない閉塞した事務所で、加藤の「番犬」に頭を下げ続けること。それが今の俺の戦いだ。
端末に向かい、ORIONの管理者画面を開く。数日前まではただの「苦役」として眺めていたコードの羅列が、今は違って見える。このシステムの裏側を流れる膨大な「数値上のノイズ」――。
加藤が上場のために操作し、隠蔽している歪みが、確実にそこに潜んでいる。かつて俺が心血を注いで組み上げたロジックの隙間に、加藤が植え付けた強欲の形跡。それを見つけ出すたび、指先に冷たい高揚が走る。
(今はまだ、触れない……)
俺はキーを叩く指を、あえて止める。下手に動けば、本社の開発部に気づかれる。今はただ、日常の保守を装いながら、この「城」の脆弱性と構造を完璧に把握することに徹する。
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昼時、2階の事務所の奥にある休憩室へ向かった。蛍光灯の無機質な光が、窓のない室内を白々と照らしている。扉を開けると、いつものようにパートの女性たちの賑やかな声が響いている。その中心から少し離れた席に、結がいた。空調の効いたWFC B棟の内部では、結の肌の白さがより不自然に際立つようになっていた。
結は、同年代のパート仲間と並んで、莉那が持たせてくれたであろう小さな弁当箱を広げている。
「成瀬さん、今日も美味しそうね」
「あ、はい……母が、早起きして作ってくれるんです」
照れくさそうに笑う結。だが、配属されてからのこの3ヶ月、現場の過酷な労働に晒されたせいか、その頬は初めて現場で見かけた時よりも心なしか削げているように見えた。不規則なシフトと、高橋の執拗な進捗管理が、病を抱えるあの子の細い肩にどれほどの重荷となっているか。
俺は離れた席で、コンビニの味気ないおにぎりを口に運ぶ。
加藤、お前が作ったこの不条理なシステムが、あの子を追い詰めている。現場を「50億のショールーム」として飾り立てるために、結のような弱者を低賃金で酷使し、その生き血を上場という「数字」に変換している。その構造そのものが、俺には耐え難かった。
ふと、結がこちらを見た。
「あ……佐伯係長、お疲れ様です」
「……お疲れ様。成瀬さん」
俺は精一杯の無表情で応える。
今の俺にできるのは、あの子の異変を見逃さないこと。そして、この「城」の内部から、加藤の喉元へ至る道筋を見つけ出すことだけだ。
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退勤後、俺は湾岸の喧騒を離れ、西麻布の路地裏へと向かう。看板のない重厚な木製扉を開け、地下1階のバー『L'éclat』に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。……あら、おにい」
カウンターの中でグラスを磨いていた恵が、微かに目を細める。
「恵、一杯だけもらおうか。……莉那さんは?」
「1階の事務所。結の新しい投薬スケジュールの件で、 さっきまで摩耶ねえと相談してたわよ。莉那さん、今は一旦1階に戻ってるけど、かなり深刻そうな顔してたから、あんまり茶化さないであげてね」
恵が差し出した琥珀色の液体を喉に流し込む。莉那が「母」として結を支える裏で、俺にできるのはこの毒を飲み干すことだけだ。俺はグラスを置くと、カウンター奥の従業員用扉を抜け、隠し通路を通って4階へと向かった。
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4階。摩耶のオフィス『L'unique』
主の気配が薄い静まり返ったフロア。俺は合鍵を使い、無人のオフィスへと足を踏み入れた。マルチモニターだけが、主人の帰りを待つように青白い光を放っている。
「……ノックくらいしたらどう? ここはあんたの家じゃないのよ」
背後から、低く艶のある声が響いた。屋上のテラスにでもいたのか、摩耶が秋の冷えた夜気と共に滑り込んでくる。
「3ヶ月、よく耐えたわね、俊哉。少しは現場の泥の味にも慣れたかしら?」
「……摩耶、お前の忠告通り、無能な係長の皮を被るのには慣れたよ」
俺が専用端末の前に座ると、摩耶は俺の背後に立ち、その細い指を俺の肩に置いた。
「莉那さんがさっきまでここで泣きそうな顔をしていたわ。結の数値が安定しないって。あんた、現場で何を見てるの?」
摩耶の鋭い視線が、モニターに映る俺の顔を刺す。俺は無言で画面を見つめ、奪還者として冷徹な声を出す。
「高橋は、俺が調整したORIONの偽りの効率性に溺れている。加藤の目をごまかすための数値は、もう十分に蓄積した。システムの脆弱性も見えた。結を救うためのタイミングは、俺が作る」
俺は端末に向かい、一歩、また一歩と、加藤の首筋へ手を伸ばすためのコードを打ち込む。会社2階の事務所で頭を下げているのは、俺の「殻」に過ぎない。
あの子が再び、未来を夢見られる場所を奪い返す。そのための秒針は、暗い部屋の中で、静かに、だが確実に加速し始めていた。
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次回も18:20に更新予定です。
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