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スマイルテイクアウト  作者: 佐伯俊哉


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第24話:守護者の聖域

ご覧いただきありがとうございます!

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 4階の『L'unique』を後にした俺は、エレベーターを使わず、非常階段を静かに下りた。3ヶ月という月日は、WFC B棟での「佐伯係長」という仮面を俺の肌に馴染ませるには十分な時間だった。だが、足音だけが響く階段を一歩下りるごとに、その仮面の下にある「父親」としての焦燥が、皮膚を突き破らんばかりに脈打つのを感じる。摩耶の言葉が、冷たく脳裏に突き刺さったままだ。


 ***************************************


 1階。不動産管理会社『L'abri(ラブリ)』。

 内廊下に面したガラス扉越しに見えるオフィスは、このビルの他のフロアとは異なり、どこか柔らかい陽だまりのような雰囲気を纏っている。観葉植物の深い緑と、控えめなベルガモットのアロマ。ここが、莉那が長年かけて築き上げた、結と恵を守るための「避難所」だ。


 成功を収めていた頃、俺は何度もこのビルの地下と4階を往復していた。だが、この1階にある『L'abri』という聞き慣れない屋号のオフィスが、自分と地続きの場所だとは今まで想像だにしなかった。摩耶が張り巡らせた情報の網と、莉那がこの地で静かに営んできた歳月は、それほどまでに周到に、俺の預かり知らぬところで完結していたということか。


 扉を開けると、デスクで分厚い台帳を開いていた莉那が、弾かれたように顔を上げた。

 「……俊哉君」

 その声は微かに震えていた。3ヶ月前に再会した時よりも、彼女の瞳には深い影が差し込んでいる。デスクの脇には、結の体調を細かく記録したであろう手書きのノートが、付箋で膨らんだまま置かれていた。


 「莉那さん。……結の具合はどうなんですか」

 俺は単刀直入に切り出した。摩耶から突きつけられた「数値が安定しない」という事実が、重い鉛となって胃の腑に落ちている。


 莉那は深くため息をつき、俺を応接用のソファへ促した。加湿器から立ち上る柔らかな水蒸気が、俺の強張った視線をわずかに遮る。

 「今月に入ってから、新しい薬の効果が薄れてきているの。主治医は、過度なストレスが原因の可能性が高いって。……WFCでの環境が、あの子にはもう限界なんだわ。数値が悪化するたび、あの子、私を不安にさせまいと無理に笑うの。それが母親として、何より耐えがたい」


 「ストレスの元凶は分かっている。高橋だ」

 俺の手が、無意識に膝の上で拳になる。

 「結は、自分の治療費のために必死なんです。母であるあなたに負担をかけたくないと、その一心で……。あの男は、あの子のその健気さを、システムの効率という名の下に磨り潰している」


 「負担なんて、一度も思ったことないのに。あの子が今日を生きていてくれるだけで、私は救われているのに」

 莉那が、祈るように胸の前で両手を組んだ。


 ***************************************


 「俊哉君。あなたが預けてくれたものを、私はただ守ってきただけ。……これを見て」

 彼女が差し出したのは、使い込まれた黒い管理用ファイルだった。そこには、莉那の手によって運用されてきた「佐伯俊哉」名義の資産目録が整然と並んでいた。


 目を通す俺の指が、ある項目で止まる。

 2021年、俺が加藤に嵌められ、すべてを失ったと思っていたあの日。だが、この書類に並ぶ都内の不動産や、堅実に積み上げられた信託資産の数々は、一度も「簒奪者」の手には渡っていなかった。


 「あなたが成功の絶頂にいた頃、摩耶に言われたの。『俊哉はいつか、身を滅ぼすような戦い方をする。だから、彼が気づかないうちに、一番堅い場所へ逃がしてあげて』って。彼女は、あなたがいつか光を失うことを確信していたのかもしれないわね」


 莉那のプロとしての手腕は、俺の想像を遥かに超えていた。俺は自分の成功で彼女たちを救っているつもりだったが、実際には、莉那が俺の「生存権」を、この地で密かに担保し続けていたのだ。かつて俺が誇っていた実体のない名声よりも、このファイルに記された沈黙の記録の方が、遥かに切実な熱を持って俺を打つ。


 「この資産を切り崩せば、結の海外での治療費も、その後の生活も、すべて賄える。でも……」

 「でも、結にはその出所を説明できない。……そうですね」


 莉那は静かに頷いた。

 「結にとって、あなたは『現場で苦労している佐伯係長』なの。そして私にとって、あなたは『薫の愛した俊哉君』。……今、出所の不明な大金でこの平穏を明かせば、あの子が自尊心で支えている世界は壊れてしまう。あの子は、誰かの犠牲の上に生きることを、何より自分に許さないから」


 ***************************************


 静かなオフィスに、加湿器の噴霧音だけが響く。俺はファイルを莉那に返した。

 「この金は、まだ動かさないでください。……俺が奪い返すべきなのは、単なる金じゃない」

 「俊哉君?」

 「結が、自分の足で、自分の意志で歩き出せる未来です。加藤や高橋という毒に怯えず、胸を張って『生きたい』と言える環境を、俺の手で作る。それが親としての、唯一の償いです」


 莉那の瞳に、17歳の頃の俺を見つめていた時と同じ、深い慈愛が宿る。

 「あなたは、本当に変わらないわね。……あの子を守るためなら、自分を地獄に落とすことも厭わない。その危うさが、あの子に似ているのよ」

 「俺は一度、絶望で死んだ男ですから。地獄の空気の方が、今の俺には馴染む」


 俺は立ち上がり、オフィスの出口へと向かった。

 「莉那さん。……結のことは、家では変わらず『母』として支えてやってください。現場のことは、俺が責任を持ちます。あの子の命を削る不条理は、俺がすべて断ち切る」

 「ええ。……お願いね、俊哉君。あの子の『お父さん』」


 背後で聞こえたその言葉を、俺はあえて受け止めずに扉を開けた。夜の西麻布。街灯の光が、アスファルトの路面を無機質に照らしている。


 地下1階、1階、4階。

 このビルに集う全ての想いが、結という一人の命に繋がっている。その重さを背負い、俺は再び、湾岸の闇の中へと足を踏み出した。


 2025年10月。牙を研ぐ時間は終わった。

 加藤の「城」を根底から揺さぶるための、最初の一撃を放つ準備は、既に俺の指先で完成している。


最後までお読みいただきありがとうございます。

次回も18:20に更新予定です。


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