第22話:再起の契約
ご覧いただきありがとうございます!
少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、下部のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると大変励みになります。
「結の……今の状態を教えてくれ。あの子は、あとどれくらいもつんだ」
俺の隣で、摩耶はグラスに残った氷をゆっくりと転がした。指先が触れそうな距離にいる彼女から、冷徹な響きを含んだ声で事実が告げられる。
「遺伝性膵癌。BRCA2遺伝子変異陽性……20年前、薫を連れ去ったのと同じ宿命よ」
心臓を素手で握りつぶされたような衝撃が走る。喉の奥が焼け付くように熱いのに、指先だけが急速に冷えていく。かつて薫を救えなかった無力感が、時を超えて俺の全身を縛り上げた。
「17歳の時、前癌病変が見つかって、あの子は1年休学して化学療法に耐えたわ。莉那さんから同時に出自のことも知らされてね。厳しい現実を受け止めきれなかったのか、あの子、あろうことか屋上の縁に立ったのよ」
摩耶の言葉に、呼吸が止まった。
「昔と違って、今はどこでもタバコが吸えないじゃない?あの日、私が屋上でひっそりタバコを吸っていたら、一人になった結がふらふらとやってきて、そのまま縁に足をかけたわ。莉那さんを偽物だと叫んで、今にもそこから飛び降りそうなほど追い詰められていた。私が言葉で叩き伏せて、強引に現実に引き戻さなければ、今頃この世にはいなかったでしょうね。……あんたが代表の座を追われ、自分の再起とやらに必死になっていた、あの時期の話よ」
失脚の痛みに悶え、酒の海で溺れながら「自分こそが世界で一番不幸だ」と信じ込んでいた時に、17歳だった実の娘は、自分の人生すべてが偽物だったという絶望に打ちひしがれ、死の淵で一人、震えていた。
救い上げたのは、父親である俺ではない。「金さえ出せばいい」と預けっぱなしにしていた莉那さんや恵、そして、隣で静かにグラスを傾けているこの女だった。俺の慢心が招いた空白を、彼女たちがその人生を削って埋めてくれていた。あの子はそこから死に物狂いで治療とリハビリに耐え、残酷な現実を受け入れ、自分の足で立ち上がった。
俺の知らない、暗く長いトンネルのような時間の中で、莉那や恵がどれほどの祈りを込めて結の背中を支えてきたか。そして、摩耶がどれほど冷徹な悪役を演じ、絶望の淵にいた結に「生きる執着」を植え付けてきたか。その献身と苦労を想像し、激しい羞恥と、それ以上の深い感謝に突き動かされた。
特に、隣にいる摩耶。
彼女は薫の面影を見せて俺を繋ぎ止める一方で、陰では俺の娘の命を繋ぐために、これほどまでの重荷を背負い続けていた。始まりは純粋な愛ではなかったのかもしれない。欠落者同士が何かを埋め合わせるかのようにして始まった深い関係。
だが、長い歳月を経て今、彼女の横顔に抱いている感情は、過去のどんな定義にも当てはまらないほど深く、重いものに変わっていた。摩耶という女性がたまらなく愛おしく、そして恐ろしいほど尊い存在に感じられる。
***************************************
「今は『PARP阻害薬』という最新の分子標的薬で抑え込んでいるけれど、その薬代は月に数十万円。自由診療も含めれば、あの子の給料なんて一瞬で消えるわ。あの子が高橋のパワハラに耐えてあの現場にしがみついているのは、自分の命を、自分で買い続けるためよ。あんたの資産を原資とした支援に頼ることを、あの子の自尊心が許さなかった」
20年前、医学の限界という壁の前で、薫の手を離すしかなかった。だが、今は違う。救える手段がある。それなのに、あの子は支援を拒み、たった一人で死の恐怖と戦っている。
「薫は死んだ。結はあんたを拒絶している。支援のスキームも、私が握っている。……全てを知った今、あんたはどうしたいの?」
摩耶の問いが、心臓の最も深い場所を鋭く貫く。震える膝を必死で抑え、顔を上げた。隣に座る摩耶の瞳だけは逸らさなかった。ここで目を逸らせば、二度と父親を名乗る資格を失う。
「結を守る。今度こそ……あの子を救い出す。俺のすべてを賭けて、お前たちが守ってくれたものを、今度は俺が取り戻す」
「だったら、することは決まってるじゃない」
摩耶が満足げに唇を吊り上げた。彼女は傍らに置いていた私物のバッグから、見覚えのある漆黒のガラケーと、最新のタブレット端末を取り出した。
「あんたの作った『ORION』を、あの男から奪い返しなさい。加藤の裏金の流れ、高橋が現場で着服している証拠……夜の街を舐めないで。情報はすべてここにある。このガラケーは、かつて私たちが真実を共有した、あの夜からの遺物」
「資金なら、15年間、L'unique名義で私が膨らませておいたわ。あんたが『莉那さんへの支援で消えた』と思い込んでいた資産は、不動産と手堅いインデックス株を主軸に、余剰分で転がしたビットコインが跳ねて、今のレートで10倍以上になっている。そしてこのタブレットには、莉那さんが15年間、あんたの預かり知らぬ場所で運用してきた、あんたの資産のすべてが入っているわ」
摩耶はタブレットを俺の方へと押しやり、真っ向から俺の瞳を射抜いた。
「加藤も高橋も、この巨大な資産の存在を知らない。俊哉、これを使ってNEXUSITEを内側から食い破ったら? 情報や資金だけじゃない。あんたにその覚悟があるなら、この拠点も含めて、私の全てを使えばいいわ。……私の全ては、そのためにあるんだから」
***************************************
カチリ、と店内のメイン照明が落とされ、カウンターを照らす僅かな琥珀色の光だけが残った。
「覚悟はできた?」
摩耶の声が、低い温度を保ったまま耳元に届く。その問いには、復讐への決意と、彼女の深淵に足を踏み入れることへの承諾、その両方の意味が込められていた。
摩耶の指先が、シャツのボタンに触れる。彼女の細い腰を引き寄せ、奪うように唇を重ねた。
彼女の肌は、驚くほど熱かった。20年前、温かな団欒の中で一人「持たざる者」として孤独を深めていた少女。彼女の執着も、歪んだ愛も、今はすべてが俺を突き動かす燃料になる。
「壊れるくらいに、抱いて……」
摩耶の爪が背中に食い込み、痛みが意識を鮮明にする。互いの呼吸が激しく重なり、汗ばんだ肌が滑る。それは慰めなどではない。絶望のどん底で結ばれた、血の匂いのする契約の儀式だった。激しく求め合うたび、俺の中に眠っていた「奪還者」の牙が研ぎ澄まされていく。
窓の外では、西麻布の夜景が冷たく光っている。摩耶の肩に顔を埋め、暗闇の中で誓った。
待ってろ、結。
俺を否定し、憎んでもいい。だが、お前を死なせはしない。
加藤、そして高橋。大切なものを踏みにじった代償は、お前たちのすべてで支払わせてやる。
最後までお読みいただきありがとうございます。
次回も18:20に更新予定です。
【お知らせ】
キャラクターのビジュアル資料や裏設定などは「note」にて公開中です。
更新情報はX(旧Twitter)でお知らせしていますので、よろしければそちらもご覧ください。




