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スマイルテイクアウト  作者: 佐伯俊哉


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第21話:免罪符の対価

ご覧いただきありがとうございます!

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 氷の溶けきったぬるい琥珀色の液体を、俺はただ見つめていた。


 薫は死んでいた。そして、最新鋭の設備が並ぶあの現場で、システムの一部として心身を削りながら働いている新入社員が、俺と薫の娘だという。


 あまりに巨大すぎる真実の重みに、俺の思考は完全に停止していた。つい先ほどまで莉那と向き合い、その口から放たれた残酷なまでの真実が、今も耳の奥で鳴り止まない。喉の奥が焼け付くように熱いのに、指先は氷のように冷たい。


 ***************************************


 ふわりと、湿り気を帯びた花の香りが鼻腔をくすぐった。


 隣のスツールがわずかに沈み、柔らかな衣擦れの音が耳元で止まる。いつの間にかカウンターを回ってきた摩耶が、俺のすぐ隣で足を組み替えた。ストッキングが擦れる密やかな音と、彼女の体温が、麻痺した俺の神経をじりじりとなぞった。


 「……どうして、もっと早く。いや、俺が気づくべきだったんだ。莉那さんがあんなにやつれて、俺を頼ってきた時に」


 「無理よ」


 摩耶が俺の言葉を遮るように、静かに言った。彼女の細い指が、俺のグラスの縁をゆっくりとなぞる。


 「あんたはあの時、成功という名の麻薬に酔いしれていた。それに、莉那さんがあんたの前に現れたあの日のこと、本当に『偶然』だと思っているの?」


 摩耶の問いかけが、俺の意識をあの早春へと引き戻した。


 ***************************************


 2010年3月。


 大学の卒業を控え、俺が創業したASTERISMは絶頂期にあった。ガラケー向けのSNSゲームがヒットし、事業売却で手にした数億円のキャッシュ。22歳の俺は、その万能感で、かつて愛した人を失った喪失感を塗り潰そうとしていた。世界は指先一つで動かせる数字の羅列に過ぎないと、本気で信じていた傲慢な時代だ。


 港区のオフィスで、俺は摩耶と向き合っていた。当時、彼女はすでに夜の世界で独自のネットワークを築き始めており、俺の資産を保全するための投資スキームを提案しに来ていた。


 重厚なデスクを挟んで、節税対策の書類をめくっていたその時、不意にオフィスのドアがノックされた。現れたのは、莉那だった。


 2004年12月、薫が「英国留学」へ発つと言って俺の前から姿を消して以来、俺は宮野家とは疎遠になっていた。半年後の夏に彼女からのメールが途絶えたとき、俺は一方的に拒絶されたのだと思い込んでいた。


 5年ぶりに会う莉那は、かつての快活な面影を失い、痛々しいほどにやつれていた。彼女の瞳の奥に宿る絶望の深さを、当時の俺はまだ読み解く術を持っていなかった。


 「俊哉君……突然ごめんなさい。でも、もう、私一人ではどうにもできなくて」


 莉那は震える声で、この5年の空白を語った。結婚してすぐに夫を事故で亡くし、さらに実家の宮野家もリーマンショックの煽りで没落したこと。そして、今、病床に伏せっている4歳の娘がいることを。


 「あの子……ひどい慢性膵炎で入院していて。保険のきかない特殊な治療が必要なのだけど、もう、費用が底をついてしまったの。このままだと、治療を続けられなくて……」


 莉那は娘の名前を口にしなかった。ただ、縋るような瞳で俺を見つめていた。当時の俺にとって、その少女は「薫の叔母である莉那の娘」、つまり薫の従姉妹でしかなかった。俺は、薫を失った埋め合わせをするかのように、目の前の不幸に同情したに過ぎない。


 俺が困惑し、隣の摩耶に視線を走らせると、彼女は冷徹なまでの冷静さで莉那の持参した資料をめくった。その唇の両端が、わずかに吊り上がったのを俺は見逃さなかった。


 「俊哉、相談に乗ってあげたら? あんたには今、使い道のない金が唸っているでしょう」


 摩耶はあえて突き放すような口調で言った。だが、その言葉には逃れられない強制力があった。


 「宮野家には昔、温かいもてなしを受けた恩があるはずよ。それに、あんたが死に物狂いで手に入れたその金に、少しは『意味』を持たせたらどうなの?」


 免罪符。摩耶の瞳がそう告げていた。


 彼女はその場で、多額の支援に伴う贈与税を回避するための複雑なスキームを提示した。俺の報酬を直接渡すのではなく、摩耶の会社L'uniqueを経由した『ネモフィラ・アーカイブ』という名の匿名の医療支援基金として莉那へ届ける仕組みだ。


 俺は、その提案に縋り付いた。病に苦しむ親族の少女を救うことで、薫を繋ぎ止められなかった自分自身の過去を、少しでも肯定したかった。それが摩耶の用意した完璧な「檻」だとも知らずに。


 ***************************************


 「私はただ、出口を失っていたあんたの良心に、正しい行き先を与えただけよ」


 現実に戻された俺の耳元で、摩耶が囁いた。


 彼女の吐息が首筋を掠める。15年間、俺は自分の金が「どこかの誰か」を救っていると自負していた。それが唯一の人間らしさの証明だった。だが、その少女こそが薫の忘れ形見であり、俺自身の娘であったという真実を、摩耶はあえて伏せ続けてきた。


 「あの子は……結は、知っているのか。俺があの時の支援者だってことを。ネモフィラの名に込められた本当の意味を」


 「いいえ。あの子には『匿名の篤志家』としか伝えていないわ。2021年にあんたが失脚して、個人口座が凍結された後、私が自費で支援を引き継いだ時もね。あんたが築いた砂の城が崩れても、あの子の命だけは私が繋ぎ止めた。あんたの代わりにね」


 「お前……そんなことまで、してたのか」


 掠れた俺の声に、摩耶は答えなかった。彼女は俺のネクタイに指をかけ、ゆっくりと結び目を緩めた。その指先が喉仏をかすめ、微かな震えが伝わる。


 「あの子がNEXUSITEに入ったのは、その『見えない手』による支配から逃れるため。自分の命を繋いだのが誰なのか、その恩義の重さに耐えられなかったのよ。……皮肉よね。あの子が必死に拒絶しているのは、実の父親と、その共犯者である私なのよ」


 摩耶の冷たい指先が鎖骨のあたりに滑り落ちるのを感じながら、ただ絶望の深淵に身を沈めていた。自分が施したと思っていた救済が、巡り巡って娘を追い詰めていた。その残酷な対価を、今支払い始めている。


最後までお読みいただきありがとうございます。

次回も18:20に更新予定です。


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