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スマイルテイクアウト  作者: 佐伯俊哉


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20/24

第20話:甘い毒、冷たい指先

ご覧いただきありがとうございます!

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 恵の足音が遠ざかり、重層な扉が閉まる。店内に残されたのは、換気扇の低い唸りと、氷がグラスを打つ乾いた音だけだった。その一定のノイズが、かえってこの空間に充満する、二人の間の絶対的な静寂を際立たせている。


 摩耶はカウンターの内側で、変わらぬ手つきでグラスを拭いている。迷いのないその背中を見つめながら、俺は促されるままスツールに深く腰を沈めた。


 目の前に滑り込んできた琥珀色の液体を見つめるうち、意識は急速に、あの蒸し暑い夜へと引き戻されていく。


 ***************************************


 大学時代。

 若さゆえの無鉄砲さで始めたガラケーゲーム事業が、予想を超えて軌道に乗り始めていた。学生起業家としてメディアに顔を出し、時代の寵児ともてはやされ始めた俺を、加藤が放っておくはずもなかった。


 加藤にとって、俺という存在は自分を飾るための「アクセサリ」であり、同時に、自分の持っていない「本物の熱」を持つ、もっとも疎ましい不純物だったのだろう。


 場所は、西麻布の一等地にあるラウンジ。

 シャンパンの泡と、金に群がる女たちの媚びた笑い声。そして、読者モデル上がりで少し顔が売れていることを誇示するように、ブランドロゴの目立つシャツを羽織った加藤の、安っぽい万能感に満ちた自慢話が渦を巻いている。


 俺は気乗りしなかったから1時間以上遅れてその場に顔を出した。成功の熱に浮かされていた俺にとって、この界隈特有の薄っぺらな優越感に浸る加藤の支配下に入ることは、生理的な嫌悪以外の何物でもなかった。


 ラウンジのドアを開けると、幾重にも重なる煙の向こう側に彼女がいた。


 「……俊哉、遅い!」


 加藤のすぐ隣で、不機嫌さを隠そうともせず座っていた摩耶が、弾かれたように立ち上がった。加藤は、自分が手懐けているはずの女が見せた想定外の反応に一瞬、顔を歪めた。読者モデル時代から培ってきたであろう「決まった表情」が、俺に対する隠しきれない嫉妬で醜く崩れる。彼は執拗に彼女の肩を抱き寄せ、耳元で自分の所有権を確認するように何かを囁いていたが、摩耶はそれを氷のような一瞥で撥ね退け、俺の元へ歩み寄った。


 彼女の身に纏う香水の強い匂いと、夜の熱気。高校時代、どこか浮世離れしていたあの頃の摩耶ではない。夜の世界に身を投じ、毒を喰らいながら自分の居場所を必死に守り抜こうとする女の鋭い美しさがあった。彼女は俺の腕に迷わず指を絡めると、加藤を振り返りもせずに言い放った。


 「ごめん。加藤さん。連れが来たから、もう行くわ」


 唖然とする加藤と、取り巻きたちの視線を背中に受けながら、俺たちは逃げるように夜の街へ滑り出した。背後で、プライドをズタズタに引き裂かれた加藤の、低い舌打ちが聞こえた気がした。


 蒸し暑い六本木通りを歩き、どちらからともなくタクシーを拾った。行き先も告げぬまま、車内の狭い空間で互いの温度だけを確認し合ったあの夜。

 自分の成功がどこまで本物か分からず、足元の暗がりに怯えていた俺と、夜の街で一人の「城主」としての戦いを始めていた摩耶。


 深い関係になるのに、言葉は必要なかった。欠落した者同士が、互いの傷口を塞ぐように、そして自分が生きていることを確認するように激しく肌を重ねる。それが俺たちの「愛」の始まりであり、地獄への共犯契約だった。


 ***************************************


 「……聞いてるの? 俊哉」


 摩耶の冷ややかな声が、現実の静寂を引き裂いた。

 俺は焦点の合わない瞳で、目の前の彼女を見つめ直す。あの頃の危うい美しさは、今や触れれば指が切れるほどの鋭利な品格へと変わっている。この地下の聖域を築き上げた、紛れもない主の顔だ。


 「莉那さんから聞いたんだ。……薫が、死んでいたってこと」


 俺の声は、自分でも驚くほど低く、ひび割れていた。


 「お前も知っていたんだろ。何故、何故教えてくれなかった? 20年も……お前はずっと、俺の隣にいて、どんな顔をして俺の薫への執着を見ていたんだ」


 問い詰める俺の声に、摩耶は磨いていたグラスを置き、まっすぐに俺を見据えた。その瞳には、かつての自分たちの青さを憐れむような、昏い光が宿っている。


 「知っていたわ。当然でしょう。私が莉那さんからどれだけ相談を受けてきたと思っているの。あの子が病を隠し、一人で結を産む覚悟を決めた時、私がどんな思いでその話を聞いていたか……あんたには一生わからないでしょうね」


 摩耶はカウンター越しに身を乗り出し、俺の頬を冷たい指先でなぞった。その感触が、俺の罪悪感を冷酷に肯定していく。


 「あの子の遺言だったからよ。あんたにだけは隠し通してくれって。……でも、それだけじゃない。真実を伝えても、当時のあんたが完全に壊れるだけだって分かっていたからよ」


 彼女の指が、俺の唇に触れる。


 「真っ直ぐで、眩しすぎるほど理想を追いかけていた頃のあんたが、誰よりも羨ましかった。だから、壊したくなかったのよ。愛を捨てたフリをして、成功という虚飾に逃げ込んだ欠落者が、唯一の支えだった薫の死を知って、まともに生きていけると思う? 私は、あんたに偽物でもいいから『王様』でいてほしかったのよ」


 彼女の告白は、救いではなく残酷な宣告だった。俺が成功の階段を駆け上がっていた間、彼女たちは俺の足元に広がる奈落を、沈黙という名の蓋で覆い隠していたのだ。俺を、あの「真っ直ぐだった頃の俊哉」の残影として繋ぎ止めるために。


 ***************************************


 「……でもな、摩耶。運命ってのは皮線なもんだ」


 俺は自嘲気味に笑い、グラスに残った酒を飲み干した。氷がカチリと鳴る。


 「その薫の娘が……結が、俺の会社に入社してきたんだ。何も知らない顔で、俺の前に現れた。薫にそっくりな瞳をしてな」


 摩耶の動きが、一瞬だけ止まった。それは、百戦錬磨の彼女が見せた、唯一の隙だった。グラスを持つ指先が微かに震え、完璧だった仮面の下に、一瞬だけ動揺が走る。


 「……そう。あの子が、あんたの前に」


 摩耶は呟くように言った。彼女がその事実をどこまで掴んでいたのかは測りかねる。ただ、彼女が結の中に、かつて自分が決して手に入れられなかった「薫の純粋さ」を見出しているのを俺は見逃さなかった。


 物語の歯車が、20年の時を経て再び軋んだ音を立てて回り始めるのを、俺たちは確かに感じていた。それは再生への胎動か、あるいはすべてが瓦解する序曲か。地下のバーには、溶けかけた氷の音だけが虚しく響き渡っていた。


最後までお読みいただきありがとうございます。

次回も18:20に更新予定です。


【お知らせ】

キャラクターのビジュアル資料や裏設定などは「note」にて公開中です。

更新情報はX(旧Twitter)でお知らせしていますので、よろしければそちらもご覧ください。

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