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スマイルテイクアウト  作者: 佐伯俊哉


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第19話:再会の扉

ご覧いただきありがとうございます!

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 西麻布の路地裏。目の前には、「THE HIDE 西麻布」と彫り込まれたビルが、闇の中にその鋭い輪郭を浮かび上がらせていた。失脚して以来、この場所を避けてきたが、他に縋る場所など、もうどこにもなかった。莉那が放った「薫は、もういない」という言葉が、何度も繰り返され、平衡感覚を奪い去っていく。


 この地下にある『L'éclat』。重厚な木製の扉を押し開けると、驚くほど澄んだ空気が全身を包み込んだ。塵一つない静寂がそこにはあった。完璧な空調設備によって管理された無機質な清涼感。この店は、俺が立ち止まっていた歳月の間に、より純度の高い、寄せ付けがたい「聖域」へと深化を遂げていた。


 ***************************************


 ふらつく足取りで、吸い込まれるようにカウンターへ歩み寄った。ただ、この灼けるような喉を酒で潤し、狂った思考を一時停止させたかった。氷がグラスに触れる乾いた音。カチリと水滴を弾く軽快な響き。無駄を一切削ぎ落とした、プロフェッショナルなその所作に、一瞬だけ意識を繋ぎ止めた。


 「……え?」


 喉の奥から、乾いた音が漏れる。

 視界が少しずつピントを結ぶ。白シャツの袖をまくり、手際よくグラスを並べていたのは、意外な人物だった。20年以上の歳月が流れても、その芯の強さを感じさせる眉のラインは、記憶にある「恵」そのものだった。


 まさかこの場所で、彼女がバーテンダーとして立っているとは想像だにしていなかった。あの幼かった恵が、この孤独な夜の世界を支配する側になっている。その事実は、俺の喪失感をより鮮明にする。


 恵が作業の手を止め、俺を見つめる。その瞳には、何かが砕けるようなショックが浮かんでいる。ひどく荒れた髪、泥に汚れた靴、そして死人のように土気色をした顔。彼女の表情は、一瞬で険しく引き締まった。20年という空白を一気に飛び越え、彼女は俺の無様な変貌を即座に「兄」として認識したようだった。


 「……おにい?」


 その呼び名だけで、凍っていた時間がわずかに溶けだした。返事をする代わりに、俺は力なくカウンターに寄りかかった。肘をついた拍子に、立てかけてあったコースターが数枚、音もなく床に滑り落ちる。かつての俺なら決して見せなかった、救いようのない不手際だ。


 「どうしたの、その顔。……何かあったの?」

 恵の声には、かつて家族を支えようとした少女のひたむきさと、この店を預かる者としての芯の強さが同居していた。彼女はカウンターから身を乗り出し、震える俺の顔をまじまじと覗き込む。彼女の記憶にある、あの頃の俊哉――若さと野心に溢れ、宮野家の中で誰よりも前を向いていた兄の姿は、そこには微塵も残っていなかった。


 「……久しぶりだな、恵」

 絞り出すような俺の声に、恵は一瞬だけ、昔のように少し首を傾けて見せた。


 「本当に久しぶり。……私ね、おにいがいなくなってから、他のカジュアルなバーで必死に修行してたんだよ。それで、3年前からここで店長を任されることになったの」

 恵は床に落ちたコースターを素早く拾い上げると、少しだけ照れくさそうに、しかし誇らしげに目を細めた。


 「店長になる時、摩耶ねえに頼んでここを大改装してもらったんだ。今は完全分煙。……えへへ、おにい、びっくりした? 昔みたいに煙たかったら、女の子がゆっくりお酒を楽しめないでしょ?」


 その「えへへ」という笑い声だけが、重苦しい静寂を軽やかに突き抜け、20年前の世田谷のマンションにいた頃の彼女を連れてきた。立派なバーテンダーの仮面の下に、まだあの頃の無邪気な妹が生きている。それが、今の俺にはたまらなく残酷に感じられた。


 「随分と、立派になったな」

 「おにいこそ。……ずっと、どこに行っていたの。私の知ってる、強気なおにいはいったいどこへ行ったのよ」


 恵のまっすぐな視線が、刃のように痛い。今の俺が背負った絶望や、莉那から聞かされた真実など、彼女には一言も話せなかった。ただ、今の無様な姿を晒しているだけで、喉の奥が焼けるように熱い。


 押し黙る俺の様子に、恵は小さく溜息をつく。その顔には、悲しみよりも深い落胆の色が見え隠れしていた。

 「……摩耶ねえがいたら、なんて言うか。きっと、またおにいと喧嘩になるわね」


 ***************************************


 その時だった。背後の扉が開き、コツ、コツと硬質な音が店内に響いた。ヒールの音だ。それは地上のどんな騒音よりも鋭く、静寂を切り裂いていく。恵が弾かれたように背後を振り返り、その表情を強張らせる。俺も、錆びついた機械のような動作で重い首を巡らせた。


 そこに立っていたのは、紛れもなく摩耶だった。黒のドレスを纏い、夜の闇からそのまま抜け出してきたかのような冷たい佇まい。圧倒的な「支配者」としての静寂を纏ったその姿は、俺を、この場に相応しくない汚れ物のように照らし出す。彼女は俺の無様な姿を一瞥すると、何の感情も浮かべずに、ただ淡々と告げた。


 「……あら。珍しいお客様ね」


 摩耶の声には、驚きも喜びもない。ただ、そこにある事実に淡々と触れるだけの響き。彼女は俺の髪の乱れや、目の下の隈、震える指先を、品定めするように冷ややかに検分する。


 「恵、閉店作業は終わり? あとは私が引き受けるわ。先に帰りなさい」

 「でも、摩耶ねえ……。おにい、こんな状態で……」

 「……いいから、今日はもう上がりなさい」


 拒絶を許さない、静かな、しかし確実な威圧感。摩耶の視線を受けた恵は、唇を強く噛み締めて黙った。彼女は俺を案じるように何度も振り返りながら、ゆっくりとエプロンを外していく。店長としての顔から、再び摩耶を慕う妹の顔に戻った恵の瞳には、抗い難い後悔と不安が宿っていた。


 「……分かったわ。おにい、あまり無理しないで」


 恵の足音が遠ざかり、店内に俺と摩耶だけが取り残された。摩耶はカウンターの内側に入ると、迷いのない手つきで氷をグラスに落とした。カチリと氷が触れ合う音が、まるで誰かの骨が鳴る音のように、静まり返った店内に響く。


 彼女は一言も発さない。俺の纏う絶望の臭いを嗅ぎ取ったのか、慣れた仕草で琥珀色の液体をグラスに注ぎ、そっと目の前に置いた。


 「そんなとこ突っ立ってないで、座ったら? 地獄でも見てきたような顔しちゃって」


 その言葉は、俺の胸に突き刺さるというより、深く沈み込んでいった。抗う気力など、とっくに消えていた。ただ、琥珀色のグラスを見つめながら、俺は21年越しに崩壊した城の破片を、喉に流し込むことしかできなかった。俺の浅い呼吸と、氷が溶ける音だけが、この閉じられた空間を埋め尽くしていた。


最後までお読みいただきありがとうございます。

次回も18:20に更新予定です。


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