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スマイルテイクアウト  作者: 佐伯俊哉


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第18話:崩れゆく城(後編)― 剥がれ落ちる嘘

ご覧いただきありがとうございます!

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 珈琲館の店内に残されたのは、俺1人だった。店を出て行った莉那の背中は、長く重い苦労を背負い続けてきた者の影を落としていた。


 駅のホームに降り立った莉那の足取りは、鉛のように重い。満員電車の揺れに身を任せ、窓の外に流れる街灯の光をぼんやりと見つめている。生活のために働き詰め、結の治療費を工面するために駆けずり回った長い歳月が、膝の奥に鈍い痛みとして残り続けている。


 ***************************************


 ふと、走馬灯のように鮮明な記憶が脳裏をよぎる。まだすべてが壊れる前、世田谷のマンションで莉那と薫、恵の3人が暮らしていた頃のことだ。


 2003年11月22日。俊哉の16歳の誕生日。

 狭いマンションの一室は、若さ特有の熱気に満ちていた。テーブルの上には、薫と恵が揃って選んだケーキが置かれている。


 「トシくん、おめでとう!」

 薫の明るい声がリビングに響く。俊哉が照れくさそうに頭を掻きながらケーキを頬張ると、隣で恵が身を乗り出した。

 「おにい、それ美味しい? 薫おねえと一緒に選んだんだよ。……おにい、またそんなに早く食べないでよ、味わって食べてよ」


 恵の精一杯の強がりと、隠しきれない憧れがそこにあった。俊哉は恵の頭をポンと軽く叩き、「おう、最高だ。恵も食えよ」と無邪気に笑いかける。その言葉一つで、恵の表情がパッと花が咲いたように綻んだ。姉を追いかけて必死に背伸びをする少女の、痛々しいほどの純真さがそこにはあった。


 「ねえ、次は摩耶ねえの誕生日でクリスマスもあるよ! ここでみんなでお祝いしよっ!」

 恵の提案に、部屋の空気がさらに温かくなる。「いいな、それ!」と俊哉が賛同し、薫も「うん、絶対楽しいね」と目を輝かせる。


 部屋の隅、少し離れた場所にいた摩耶が、そのやり取りに一瞬だけ目を剥いた。

 孤児院という場所で「自分の居場所」を奪われ続けてきた彼女にとって、誰かの視界に入ること、ましてや誰かの未来の予定に自分が組み込まれていることは、天変地異にも等しい衝撃だった。


 他者の愛を欲してやまない魂が、同時にそれを「いつか奪われるもの」として激しく拒絶する。何かを強く求めれば求めるほど殻に閉じこもり、冷ややかな態度をとることでしか、傷つきやすい自分を保てないのだ。


 (私なんかが、この光の中にいていいの?)


 そんな叫びを押し殺し、彼女は突き放すような言葉を口にする。


 「……勝手にすれば。私は、別にどっちでもいいけど」


 否定しながらも、その声は微かに震えていた。自分をその「輪」の中に置いてくれたことに対する、猛烈な感謝と、それを認めてしまうことへの恐怖。凍りついた心が僅かに解ける音を、本人は隠せているつもりだったのだろう。だがその瞬間、摩耶の孤独な魂は、このささやかで壊れやすい「約束」に、自らの生存のすべてを縋り付かせようとしていた。


 莉那は台所から、その光景を静かに眺めていた。あの時、5人が共有していた幸福は永遠に続くかのように見えた。莉那の目には、あの眩しすぎる日々こそが、この先の過酷な道のりを歩み続けるための、何よりも尊い灯火のように映っていた。


 ***************************************


 幸福な記憶は、現実の残酷さに侵食されていった。

 莉那自身が結婚して成瀬姓を名乗った直後、夫を事故で失い、傷ついた心で宮野家に身を寄せた矢先のことだ。薫の病魔は徐々にその体を蝕んでいった。莉那は姉を支え、懸命に姪の薫の看病を続けた。しかし、薫は命と引き換えに結を出産し、この世を去った。


 結を養子として引き受けると決めたとき、周囲は皆、狂人扱いした。自身の生活すらままならない状況で、病弱な子供を育てるなど不可能だと。だが、結の瞳を見た瞬間、莉那は薫の最期の願いを悟った。この命だけは、何があっても守り抜かなければならない。薫が遺した唯一の光だったからだ。


 莉那は法的な手続きを経て結を迎え入れた。その直後、リーマン・ショックの波が姉夫婦の会社を飲み込んだ。破産を苦にした姉の夫は自ら命を絶ち、姉もまた、後を追うように病に倒れて逝った。一家が崩壊したあとの宮野家には、莉那と、まだ幼い恵、そして結だけが残された。


 薫の葬儀や納骨の際、唯一の支えとなってくれたのが、薫のことを共有していた摩耶だった。

 あの誕生日以来、摩耶にとってこの家族は「守らなければならない聖域」へと変わっていた。夜の世界ですぐに頭角を現した彼女に、経済的な窮状を相談したあの日があったからこそ、今の結がある。

 結の気丈さと、影を帯びた瞳は、どこか薫の面影だけでなく、摩耶の宿す孤独な強さを思わせる。


 「俊哉君、あなたには分からないでしょうね。失うことが、どれほど人間を強くするのか」

 莉那は小さく呟き、電車の扉が開く音に顔を上げた。今の彼女にとって、言葉はもはや復讐の道具ではない。ただ、結という命を繋ぐために積み上げてきた歳月の重みを、彼に突きつけたかっただけだった。


 莉那は、揺れる車内で静かに目を閉じた。今の自分には、守るべきものがある。どんな絶望が押し寄せようとも、この命を全うする――。そんな静かな決意が、彼女の表情を強張らせた。


 ***************************************


 莉那と別れた後、俺は1人で薄暗い店を渡り歩いていた。だが、どれだけ安酒を煽っても、胃の腑に流し込んでも、絶望は全く消えなかった。それどころか、莉那の言葉が、喉に刺さった棘のように疼き続ける。


 深夜、俺は足を引きずるようにして、都心にひっそりと佇む会員制バーの前に立っていた。

 かつて栄光の中にいた頃、ここには俺の居場所があった。失脚し、すべてを失った今、この扉の前に立つこと自体が、かつての自分に対する冒涜のようにも思える。重厚な扉の向こうには、摩耶がいる。俺の過去と現在を知る、唯一の理解者。彼女と会うのは、本当に久しぶりだ。


 俺は、震える手で真鍮のドアノブに触れた。この扉を開ければ、俺の「綺麗な城」は完全に瓦解する。それでも、行かなければならない。この罪と、俺が背負うべきこれからの人生を、彼女になら預けられる気がしたからだ。


最後までお読みいただきありがとうございます。

次回も18:20に更新予定です。


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