第17話:崩れゆく城(前編)― 残された真実
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2025年7月8日。
午前中のピッキング作業を終えた結は、少し火照った体を冷ますように休憩スペースへと足を運んだ。正午を告げるチャイムが館内に鳴り渡ると、張り詰めていた現場の空気が一気に弛緩し、現場のパートさんたちが楽しげに弁当箱を広げ始める。
「結ちゃん、こっちこっち! 席取っておいたわよ」
大きな声で手招きをしたのは、現場のベテランである佐藤さんだった。結がその輪に入ると、佐藤さんが身を乗り出した。
「結ちゃん、今日のそれ、ロールキャベツじゃない!本当、お母様の手料理はいつも丁寧よね。美味しそうだわ」
「あ、はい。昨日が私の誕生日だったので、母が張り切って作りすぎてしまって。……もしよかったら、皆さんで少しずつ召し上がりませんか? タッパーに分けて持ってきたんです」
結が差し出した小分けの容器に、パートさんたちが一斉に目を輝かせた。
「まあ! 昨日が誕生日だったの? なんで言ってくれないのよ!」
「おめでとう! 20歳になったのね。昨日は何か素敵なことあったの? 彼氏とのデートとか!」
「ううん、デートなんて……。母と家でゆっくりお祝いしました。でも、佐伯係長が昨日、事務手続きの時に少しだけ優しかった気がします」
「あの佐伯さんが? 珍しいわね。あの人、血も涙もない鉄仮面かと思ってたわ」
「お節介な係長よね。まあ、新人には厳しくないとね」
パートさんたちの賑やかな会話を聞きながら、結は温かいスープを啜った。自分を大切に育ててくれた母と、厳しいけれどどこか引きつけられる職場の人々。結にとって、この日常は、何物にも代えがたい宝物だった。
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同じ頃、2F事務所のデスクで、俺はモニターの無機質な数字を見つめていた。昨夜、莉那と交わした電話の記憶が、網膜の裏に焼き付いている。昼休憩を過ぎても、思考は作業端末の画面を通り越し、21年前の冬へと深く沈んでいく。窓のない閉鎖空間を循環する空調の低周波が、今の俺の焦燥を煽り立てていた。
仕事に集中できないまま、事務所内に定時業務終了の合図が響く。無言で鞄を掴み、事務所を後にした。自分の影から逃げ出すような足取りで、駅前の商店街へと向かった。
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カランコロン、と乾いたドアベルが鳴る。「珈琲館」の店内は、深く焙煎された豆の香りとクラシック音楽に満たされていた。奥の席に、莉那が1人で座っているのが見えた。テーブルの上には、手付かずのまま冷めたコーヒーカップが置かれている。
俺は促されるように彼女の向かいに腰を下ろす。莉那は何も言わず、ただ静かに俺を見つめていた。その瞳には、悲壮なまでの覚悟が宿っている。
「……来てくれてありがとう、莉那さん」
「俊哉君。……結が持っていたあのペン、あなたは見たのね」
莉那の、震えを押し殺した問いかけに、俺は小さく頷いた。
「ああ。俺が、17歳の夏に薫に贈ったものだ。……なぜ、結があれを持っているんだ」
莉那は小さく息を吐き、静かな、しかし確かな声で紡ぎ始めた。
「結はね、俊哉君。薫が命と引き換えに遺した、たった1つの宝物なの。……そして、あなたの娘よ」
(――は?)
思考が、音を立てて停止した。
心臓を素手で掴み出されたような、生々しい衝撃。
薫が、いない?
命と引き換えに?
(娘。……俺の、娘。あの子が? 薫が命を懸けて、独りで守り抜いたのが……あの子だというのか?)
莉那の唇が動いている。だが、激しい耳鳴りに遮られ、言葉が砂嵐のように通り過ぎていく。指先が、自分のものとは思えないほど冷たくなっていく。
「……薫は。薫はどうして、俺に何も言わずに消えたんだ。留学なんて、嘘だったのか」
絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
「嘘よ。あの子は、あなたに未来を歩んでほしかった。自分の病気のせいで、あなたの人生を縛りたくなかったの。……でも、お腹に宿った命だけは、どうしても諦めきれなかった」
(病気? 縛りたくなかった……? 冗談だろ。返事の来なくなったメールを何度も見返して、勝手に突き放された気になっていた。あの子は、あの子だけは俺を裏切らないと信じて、同時に、連絡を絶った彼女を忘れられない自分をどこかで軽蔑して……)
(そんな独りよがりの意地を張っていた俺の裏側で、あの子は。あの子はたった独りで、俺との約束を守るために死んでいったのか?)
「薫はね、自分が長くは生きられないと知っていた。だから、あなたとの思い出を『綺麗なまま』終わらせるために、消える道を選んだのよ。……あの子、最期の日まで言っていたわ。『トシくんは、きっと凄い人になるから。邪魔をしちゃいけないの』って」
(邪魔? 誰が。何が。俺が望みもしない「凄い人」にするために、彼女はたった1人で死に向かったというのか。俺を守るために、彼女は俺のいない場所に消えていった。……そんなことが、許されるのかよ)
胃の底からせり上がる吐き気を必死に抑え、莉那の言葉を拒絶したくなる。だが、逃げ場はない。
「結が生まれたのは、あの子が亡くなるわずか数時間前。……最期に、あの子はこのペンを私に託したの。『いつか結が、私の年齢に追いついたら渡してほしい。それが私の、生きた証だから』って」
(生きた証。……あの日、17歳の俺が震える手で渡したペンを、結はずっと、握りしめていたのか。何も知らない俺の目の前で、あの子はずっと……)
脳裏に、現場を足を引きずるようにして歩く結の姿がフラッシュバックする。
莉那の娘だから、目をかけていたはずだった。足の悪い少女を見過ごせなかったのは、単なる慈悲だと思っていた。
(違う。そんなもっともらしい理由を並べて、俺は自分を誤魔化していただけだ。あの子が足を引きずるたびに、俺の心はざわついていた。説明のつかないあの執着の正体は、俺自身の血だったのか)
俺は、何も言えなかった。
「佐伯係長」と自分を呼び、ひたむきに指示に従うあの子。効率という名の残酷な物差しで測る過酷な檻に、俺は彼女を留め置いてきた。彼女が誰の命を継いだ存在かも知らず、俺はあの子を傷つけ続けてきたのだ。
(俺が本当にすべきだったのは……あの子を、こんな場所に居させてはいけないということだったのに)
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次回も18:20に更新予定です。
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