第16話:七夕の約束
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結が去った後の事務所は、まるで真空状態に陥ったかのように静まり返っていた。俺はデスクの端を爪が白くなるほど強く掴み、必死に呼吸を整えようと試みる。
結の言葉が、脳内で何度も再生される。
『亡くなった母の、形見なんです』
『20歳の誕生日なんですけど、母の命日でもあって』
そして、あの銀色のペン。21年前に、俺が17歳の夏に、薫への想いを込めて贈ったあの1本。
金属の冷たさと、彼女の指先の温もり、そしてあの雪の日の別れ。それらが、現在という時間の中で渾然一体となって俺の思考を支配する。結がそのペンを日常的に使い、お守りのように大切にしているという事実は、俺の胸を鋭い刃物で刺すよりも痛ましく、残酷に響いた。
心臓の鼓動が、不快な音を立てて跳ねる。これまで俺が信じていた世界が、音を立てて崩れ去っていくのが分かった。薫は留学などしていなかったのではないか。俺の前から姿を消したあの冬、彼女は俺に嘘をつき、そのままこの世を去ったのではないか。
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震える指先でスマートフォンを取り出し、連絡先を呼び出した。成瀬莉那。俺の知る限り、薫の叔母であり、結を娘として育ててきた女性。彼女なら、全てを知っているはずだ。
呼び出し音が、単調に響く。今の俺の焦燥を煽り立てるようなその音が、数回繰り返された後に繋がった。
「俊哉君? こんな時間に珍しいわね。……どうしたの? 結に何かあったの? 今日は誕生日だから、もうすぐ帰ってくると思うけど』
電話越しに聞こえた莉那の声は、いつも通り落ち着いている。その朗らかさが、今の俺の動揺を余計に浮き彫りにする。
「莉那さん。……聞かなきゃいけないことがある。21年前に、薫に何があったのか。……結の正体は、何なんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
電話の向こうで、莉那が小さく息を呑む気配がした。沈黙。それは、俺の推測が的外れではないことを証明するには十分すぎた。
「……答えてくれ、莉那さん。結のペンを見たんだ。あのペンが、なぜ結の手に渡っている?」
莉那はしばらく沈黙を守った後、今は話せる状態ではないことを察したのか、静かな声で言った。
『……俊哉君。ごめんなさい。今日は結の20歳の誕生日なの。お祝いの準備の最中だから、今は話せないわ。……明日の仕事終わりでいいかしら。駅前の「珈琲館」で会いましょう』
「……分かりました。明日、必ずお願いします」
通話が切れる。俺はスマートフォンをデスクに投げ出し、頭を抱えた。モニタールームの大型モニターだけが、無機質な青白い光で俺の顔を照らしている。七夕という特別な夜の空虚さが、俺の胸を鋭く切り裂いていく。
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一方その頃、莉那の自宅では、温かな湯気がキッチンを満たしていた。
食卓には、結の好物であるロールキャベツと、彩り豊かな季節のサラダが並んでいる。莉那は、結が帰宅した瞬間に最高の状態で食事ができるよう、最後の仕上げに余念がない。オーブンから取り出したばかりの野菜の香りが、キッチンを優しく包み込む。
莉那は時折、手元の時計を確認しながら、心ここにあらずといった様子でコンロの火を止めた。俊哉からの電話は、彼女にとってもまた、長年守り続けてきた結界が崩れる予兆であった。
ガチャリ、と鍵の回る音がした。
「お母さん、ただいま! すごい、いい匂い!」
玄関から現れた結は、現場での疲れを感じさせないほど目を輝かせ、キッチンへ駆け寄る。その無邪気で幸せそうな笑顔を見ると、莉那は一瞬だけ、俊哉との電話の重みを忘れそうになった。
「おかえり!! 今日は特別だからね。20歳、本当におめでとう、結」
莉那は努めて明るく振る舞い、優しく微笑んでワイングラスにジュースを注ぐ。
食卓を囲み、温かいスープを啜りながら、楽しい会話が弾む。
「そういえば結。先日話題に出ていた佐伯係長、また何かあったの?」
莉那がさりげなく尋ねると、結は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ううん、別に。ただ、最近すごく真面目に接してくれるんだよ。最初は怖かったけど、今は少しだけ、信頼できる人だって思うようになったかな。すごく不器用な人だけど、なんだか放っておけないっていうか……。たまに見せるあの寂しそうな目が、気になっちゃうんだよね」
結は自分の大切なペンを愛おしそうに撫でた。
その光景を、莉那は複雑な眼差しで見守る。本当の父親だと知らずに、その人の背中を追いかけ、あまつさえ親愛の情を抱き始めている娘。この残酷な運命を、彼女はいつまで隠し通せるのだろうか。
「……結が元気でいてくれるなら、お母さんはそれだけでいいわ」
莉那はそう言って、結の頭を優しく撫でた。結は幸せそうにロールキャベツを頬張り、明日への希望に満ちた表情を浮かべている。
莉那は、これから明かされる真実が、この温かな日常をすべて破壊してしまうかもしれないという恐怖を、心の奥底に深く沈め込んだ。明日、俊哉に全てを話さなければならないという重圧が、莉那の胸を静かに押しつぶそうとしていた。
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翌朝。2F事務所の自席に着いたものの、昨夜ほとんど眠れなかったため、視界がぼやけていた。
「おい佐伯。昨日から様子がおかしいぞ。新人に何か吹き込まれたのか?」
高橋は俺の肩を強く叩き、耳元で低く囁く。その声には、部下を観察する上司の目というよりは、獲物の弱みを探るハイエナのような執着が混じっていた。
「あんな小娘の泣き言にいちいち反応するな。所詮、彼女は使い捨てのコマなんだ。お前みたいな、終わった過去に縋って生きる男には、理解できない合理的な世界だろうがな」
高橋は俺の無反応を「図星」と捉えたのか、愉快そうに肩を揺らして笑いながら、自身のデスクへと戻っていった。あの男に、結の何が分かるというのか。この職場という閉ざされた空間で、俺が守らなければならないものの正体が、今ようやく輪郭を見せ始めている。
俺は席を立ち、逃げるようにフロアの端にある休憩室へと向かった。まだ早い時間のため、誰もいない。自動販売機のボタンを押し、紙コップに注がれた冷たい茶を一口啜る。俺はただ、壁に貼られた無機質な案内図を眺めながら、静かに時が過ぎるのを待つ。夕刻、駅前の喫茶店で、21年間の空白を埋める「真実」という名の毒を飲み干す、その瞬間まで。
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次回も18:20に更新予定です。
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