第15話:銀の嘘
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2025年7月7日。
WFC(湾岸フラッグシップ・センター)B棟1階、ピッキングエリア。
広大な倉庫内は、ピッキングの効率を示す数字がリアルタイムで管理され、結のような現場スタッフは、巨大なシステムの一部として消費されていく。左足の痛みが熱を帯び、ふくらはぎが強張るのを感じるが、彼女は一度も足を止めなかった。この痛みすら、生きている証拠だと言い聞かせるように、彼女は冷たい鋼鉄の棚と向き合い続けた。
倉庫の端に設置されたスピーカーから、終業を告げるチャイムが響き渡る。結は端末を充電ラックに収めると、重い足取りを引きずって2階の事務所へと向かった。
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事務所内は倉庫の喧騒から隔絶され、張り詰めた静寂に満ちている。高橋課長のデスクに置かれた「会議中」のプレートを横目に、結は奥のシステム保守課ブースへと歩み寄った。そこには、ただ1人、黙々と端末を叩く佐伯係長の姿がある。
「佐伯係長、失礼します。緊急連絡先の確認案内が来ていたので、今のうちにと……」
結の声に、俺は顔を上げた。
「成瀬さん、お疲れ様。健康診断の結果が届いているよ。あと、この緊急連絡先の確認書類にサインを頼めるかな」
俺は極めて事務的な声を出し、デスクに書類を広げた。
「はい。お手数をおかけします」
結が、作業着のポケットから1本のペンを取り出した。銀色のクリップが、青白い蛍光灯の下で鈍く光る。
『T to K 2004.08.20』
17歳の夏、俺が薫に贈った、世界に1つだけの証だ。彼女がさらさらとサインをする。その流れるような運筆さえ、記憶の中の少女に寸分違わず重なった。指先の細さ、ペンを握る角度、そして僅かに首を傾げる癖。そのすべてが、21年前へと俺を強引に引き戻す。
「……成瀬さん、そのペン、大切にしているんだな」
俺の声が、自分でも驚くほど震えていた。結は少し不思議そうにペンを見つめ、それから慈しむように微笑んだ。
「はい。……亡くなった母の、形見なんです。今日は私の20歳の誕生日なんですけど、母の命日でもあって。……今日という日は、私にとって少し特別な日なんです」
「そうか……。立ち入ったことを聞いてしまったね。すまない。誕生日がお母様の命日とは複雑な気持ちになってしまうね。お母様と言えば、こちらの緊急連絡先には母となっているが……」
「緊急連絡先は、育ての母なんです。私、両親がいなくて養子で。形見は3年前、高校休学中に、母から譲り受けました。私がちょうど、実の母が亡くなった年齢になった時に……。『あなたのお母さんから預かっていたものだから』って。私、実の母のことは何も知らないんです。だから、これを持つと、不思議と守られているような気がして」
「……そうだったのか。実のお母様が亡くなった年齢に、か」
「はい。……その時は驚きましたけど、母には本当に感謝しています」
心臓が、不快な音を立てて激しく跳ねた。7月7日。今日は、結の20歳の誕生日。
結は莉那の娘だと思っていた。いや、莉那が「育ての母」だというのか。では、結の「実の母」は薫なのか。そして、薫がこの世を去った命日だというのか。形見。死者の遺品。そんなはずはない。彼女は、あの冬、俺の前から「留学」へと旅立ったはずだ。俺が今日まで信じてきた、彼女の「新しい人生」という前提が、砂の城のように音を立てて崩れていく。
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2004年12月。
雪が降っていた。バイト先の屋上。
「薫!遅くなってごめん」
「ううん、いいの。それよりバイト前にごめんね。トシくん。突然なんだけど、私ね、留学することにしたの」
薫は、いつもの明るい笑顔で、だがどこか透き通るような表情で俺を見た。
「今日でバイトも辞めてきちゃった。トシくんには内緒でね。……トシくんは、ちゃんと大学に行ってね。優秀なんだからもったいないよ。約束だよ、トシくん」
雪が彼女の肩に積もり、溶けていく。「行くな」と言いかけた俺の唇を、彼女の冷たい唇が塞いだ。それは、微かに震える、祈りのようなキスだった。俺の手を握る彼女の指先は、氷のように冷たかった。
「……待ってる。卒業したら、俺もそっちへ追いかけるから」
そう誓った俺に、彼女はただ、悲しげな微笑みを返しただけだった。あの時、彼女は俺の未来を奪わないために、嘘をついたのか。あの笑顔の裏側で、彼女はどんな思いで俺を突き放そうとしていたのか。それが、永遠の別れになるなんて、17歳の俺には気づくはずもなかった。あの冷たさは、冬のせいなんかじゃなかった。俺が夢見ていた再会の日々は、最初から存在しない幻影だった。
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「……佐伯係長?」
結の声で、現代に引き戻された。俺はデスクの端を爪が白くなるまで強く掴み、表情筋を無理やり弛ませた。視界の端で蛍光灯がチカチカと点滅し、不快なリズムで網膜を焼き付ける。
目の前にいるのは、かつて愛した女性と同じ面影を持つ、20歳の女性。彼女がピッキングエリアで酷使され、左足を痛めながらも守り続けてきたのは、俺が贈ったあのペンだった。この21年間、俺は何を見てきた。自分の無知と、彼女の言葉が示唆する「最悪の可能性」の重さに、立っていることさえ困難になる。
「......いや。少し、立ち眩みがしただけだ。……もう戻っていい」
俺は書類をひったくるように回収し、彼女を追い出すように戻した。結の背中が遠ざかる。あの背中が、俺の21年間を無惨に踏みにじっていく。何が留学だ。何が新しい世界だ。俺は今日まで、死者の影を追いかけていたというのか。事務所の窓に映る自分の顔は、驚くほど憔悴していた。21年前から一歩も進んでいなかった自分を、突き付けられた気分だった。
俺は震える指で莉那の番号を呼び出した。電子音が耳元で無機質に繰り返される。その数秒が、永遠のように長く感じられた。
『……はい、成瀬です』
莉那の、落ち着いた、それでいてどこか秘密を湛えたような声が響く。
「莉那さん。俊哉です。……今すぐ、会えませんか。……聞かなきゃいけないことがある。どうしても, 直接確認しなきゃいけないことがあるんだ」
声が震え、掠れた。嘘を暴くための勇気か、あるいは真実を知る恐怖か。俺の指先は、冷たくなったままで、二度と戻らない夏の名残を必死に探していた。
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次回も18:20に更新予定です。
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