第14話:静かなる防波堤
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2025年7月5日、土曜日。
1Fの広大なピッキングエリアで、私は無機質なベルトコンベアが流れる先を見つめながら、昨日の事務所でのやり取りを反芻していた。
「君に不当な負担はかけさせない」
あの時、佐伯係長が見せた瞳の奥の強さは、私の抱いていた「頼りない人」という第一印象とは大きく違っていた。普段は目立たず、事務的な対応に終始する人だと思っていたのに。自分のためにリスクを負って動いてくれた。その事実は、高橋課長という圧倒的な毒に対する唯一の解毒剤のように思えた。
私の装着する端末には、今日、懸念されていた「廃棄物集積所の裏」への移動指示は届いていない。
それどころか、高橋課長は朝から一度も現場に降りてきておらず、1Fの現場管理ブースは主を失ったように静まり返っていた。いつもなら背中に刺さるようなあの不快な視線がないだけで、空気の密度が変わったように感じる。佐伯係長が、見えないところでシステムという網を張り巡らせ、私を守ってくれている――その確信が、冷たい鋼鉄の檻のようなこの場所で、唯一の救いだった。
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2階休憩室での昼食を終え、1階の現場へ戻ろうとしたときのことだ。2階事務所の入り口付近で、周囲の社員たちが遠巻きに中を窺っているのに気づいた。ガラス越しに見えるのは、高橋課長と佐伯係長の姿だった。
課長の顔色は土色に近く、手元の資料を握りしめる指先が小刻みに震えているのが遠目にも分かった。デスクの上に広げられたのは、おそらくORIONの操作ログの出力結果だろう。普段なら周囲を威嚇するような大声が、今日は全く聞こえてこない。あれほど傲慢に振る舞っていた男が、係長の前では防戦一方だ。
佐伯係長は椅子に深く腰掛けたまま、感情を読み取らせない静かな手つきで、モニターに並ぶ特定の数値を指し示していた。高橋はそれに対し、口を歪ませて何かを必死に弁明しようとしているが、係長が画面をスクロールさせるたびに、その言葉は力なく霧散していくようだった。
「……嘘みたい」
思わず零した私の声に、隣を歩いていたパートの佐藤さんが小声で応えた。
「見た? 今日の課長。佐伯係長に何か言われて、完全に固まってたわよ。いつもあんなに偉そうなのに。まるで、蛇に睨まれた蛙ね」
「ええ。……あんな課長、初めて見ました」
「佐伯係長って、普段は静かだけど実はすごいのよ。あんな風に課長を黙らせられるなんて、裏で何か決定的な証拠でも握ったのかしら。ねえ、成瀬さん。あんたの件で、係長が動いてくれたんじゃない?」
佐藤さんの鋭い指摘に、私は答えに窮した。けれど、周囲も薄々気づき始めているのだ。あの人が職場に立っているだけで、胸の奥のざわつきが不思議と凪いでいくのは、私だけではないのかもしれない。彼がログの海から釣り上げたのは、高橋課長が隠蔽しようとしていた「特別指導」という名の権力乱用の痕跡なのだと、私は直感していた。
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17時。シフトを終え、更衣室で作業着を脱ぐ。鏡に映る自分の顔は、朝よりも強張りが取れていた。退勤の喧騒を抜け、2F事務所の前を通りかかると、佐伯係長がまだ端末に向かっているのが見えた。私は立ち止まり、ドアをノックする。
「佐伯係長。……お忙しいところすみません。先ほどは本当にありがとうございました。係長が動いてくださったおかげで、今のところ何も言われていません」
佐伯係長は振り返り、端末の電源を落としながら穏やかな笑みを浮かべた。その瞳には、昼間の冷徹さは微塵もなく、いつもの優しい光が宿っている。
「ああ、成瀬さん。お疲れ様。いいんだ、気にするな。センターの環境を整えて、誰もが働きやすい場所にするのも私の仕事だからね」
「……はい。あの、また月曜日からよろしくお願いします」
私が頭を下げると、彼は少しだけ柔らかな声で続けた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。成瀬さんも、週末はしっかり休んで英気を養って。良い週末を」
「ありがとうございます!」
私は小さく一礼し、センターを後にした。有明の潮風が火照った頬を撫でる。ポケットの中で銀のペンに触れると、その硬質な感触が、明日への確かな手応えのように感じられた。
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帰宅すると、キッチンではお母さんが夕食の準備をしていた。香ばしい醤油の匂いが玄関まで漂ってくる。
「おかえり。今日もお疲れ様。センターの仕事、慣れた?」
「うん、まあね。……でも今日、佐伯係長がすごく頼りになる人だって分かったよ」
私は高橋課長に絡まれていることは伏せたまま、佐伯係長が業務上のトラブルをスマートに解決してくれたことを伝えた。母に心配をかけたくないという思いと、彼との秘密を共有しているような、むず痒い高揚感があった。
「普段はパッとしない係長なんだけどね。いざという時は、なんか、すごくかっこいいの」
お母さんがフライ返しを片手に、微笑ましそうに私を覗き込む。
「へえ、佐伯さんってそんな人なんだ。結、今日すごく嬉しそうだね」
(俊哉君、ありがとう……。私との約束を守って、結には何も言わず、あの子を陰から見守ってくれているのね。あなたが結の側にいてくれるなら、私ももう少しだけ、この穏やかな日々を信じられる気がするわ。あの子の身体のことも心配だけど、心が折れずに笑っていられるなら……)
「……そんなことないよ。ただ、この場所で初めて『味方』を見つけた気がしただけ」
お母さんは食卓に料理を並べ、優しく頷いた。
「味方、か。いいことじゃない。結がそうやって安心できる場所があるなら、私は嬉しいよ。一度会ってみたいな、その佐伯さんって人」
食卓で2人で他愛のない話をしているうちに、張り詰めていた神経がすっかり緩んでいく。ポケットの中の銀のペンに触れる。この形見が、佐伯係長という人との縁を引き寄せてくれた気がした。あの人は今日、約束を守ってくれた。そして、明日からも私を見守ってくれている――そう思うだけで、不思議と怖さは消え失せていた。
月曜日の出勤が、以前ほど恐ろしくはない。佐伯係長という存在が、今の私を支える大きな柱になりつつある。明日になればまた仕事が始まるけれど、今の私には帰るべき場所と、守ってくれる誰かがいる。それだけで、十分だった。
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次回も18:20に更新予定です。
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