外伝 道中〈アンカスター辺境伯領地〉4
「…」
スカイは誰もが押し黙っていた空気の中、イングリッドを見上げていた。
バルコニーの窓際に佇んでいたイングリッドの背中には真っ青な空。鮮やかな赤い毛先が腰で揺れている。
「あら?私の顔に何かついてる?」
イングリッドはスカイへ歩み寄り、スカイの額にかかった髪を優しく払う。
より間近でイングリッドを認め、そばかすさえ、人を魅力的にするのだとスカイは感心した。
「夫人はとても素敵な方ですね」
群青色の瞳を煌めかせてスカイが伝えた。イングリッドは目を細め、硬い指先でスカイの鼻頭を軽く押す。
「貴女の方が美人さんよ」
イングリッドも一度だけ、社交界へ足を踏み入れたことがある。それは、シグニの長女(現ガルグイユ公爵夫人)がデビュタントを迎える際、シグニの名代として夫と共に王都へ赴いたときのことだ。
そこは、戦場よりも恐ろしい場所だった。学んだのは、社交界は見た目が重視されるということ。イングリッドは堂々たる振る舞いでそれを跳ね返したが、もう二度と参加したくないと思い、メルタのときは付き添いを辞退した。
淑女からかけ離れている自分よりも、スカイの方が輪郭も繊細で愛らしいとイングリッドは感じた。
「私なんかとても…。私は夫人のような人になりたかったな」
目を輝かせ、なおもスカイが言うものだから、イングリッドは心の中で小躍りをした。
スカイは貴族らしくなく、思ったことをすぐに口にする傾向があるようだと、イングリッドは受け止めた。
スカイの真っ直ぐで無垢な眼差しをイングリッドは気に入った。
「ねぇ?ダーリン。お願いがあるの」
イングリッドはスカイからヴィルヘルムへ視線を移した。
「何だい?ハニー」
「私たちの間には子供がいないでしょう?」
イングリッドは女戦士だ。
ダグが異種族と協定を結ぶまで、彼女は前線を守ってきた。
身体に無理を強いていたため、夫妻はなかなか子宝に恵まれなかった。
平和は訪れたが、子を授かるにはあまりにも長い年月が流れていた。
「僕はそれでも君を愛しているよ」
ヴィルヘルムは髪を指に通し、毛先へ接吻した。
ヴィルヘルムはアンカスター辺境伯の次期当主だ。跡取りは必要であるものの、妻以外の女性を、決して閨へ呼ぶことはなかった。
イングリッドの胸に夫の優しさが滲みていく。イングリッドは何気なく告げた。
「ねぇ?スカイちゃんを私たちの娘に迎えない?」
イングリッドの爆弾発言に、まず反論したのはダグだ。
「はっ?おいおいおいっ!言っとくけど、スカイはオレと旅しているんだ!」
ヴィルヘルムは即答した。
「それは難しいよ」
ヴィルヘルムの判断はもっともだとスカイは思った。自分なんかが養子に迎えられるなどあるはずもない。
ヴィゴがイングリッドへ説明した。
「イングリッド夫人。スカイはまだソーン伯爵家の長女だ。ソーン伯爵夫妻が認めない」
「あら?でも放置してたんでしょう?」
あっけらかんとした口調でイングリッドが告げると、ヴィゴに首根っこを掴まれたダグが拳を突き上げる。
「おいこらっ!言い方ってもんがあるだろう!」
「いいよ。本当のことだし」
大したことでもなさそうにスカイはポツンと呟く。ヴィゴは心苦しくなった。スカイは喜怒哀楽はあるものの、感情を面に表すことは少ない。長年の虐待のせいだろうと推測するのは簡単だ。
「嬢ちゃん…」
「そりゃあ!わしは良い案じゃと思うぞ!」
シグニは躊躇いもせず、イングリッドの意見に賛成した。
「僕だって…」
ヴィルヘルムが項垂れ、長く伸びた金髪が顔を隠した。次の瞬間、顔を上げる。湖水のように透明な瞳に強い意志を浮かべて叫んだ。
「僕だって!スカイのような娘なら大歓迎です!ですがっ!あのメルタがどう反撃してくるか!あのメルタですよ!」
「…そうね。あのメルタですものね?」
スカイは耳を疑う。
人目を避けてではあるが、十二歳以降、スカイはフィオナに連れ出され、屋敷内を歩き回るようになった。
時折、柱の影からそっと母の姿をスカイが見つめることも…。
フィオナと同じ色をした眩い金髪を綺麗に結い上げ、穏やかで柔らかな瑠璃色の眼差し、淑女の鏡といっても過言ではない麗しい人だった。
「そんなに?」
ダグはメルタを知らない。
ヴィゴがダグを孤児院から引き取ったのは、メルタの嫁入り前だが、そのままヴィゴの放浪に付き合っていたので、面識が全くない。
「ああ、お前はメルタ夫人と会ったことがなかったな。ここの兄姉妹の容姿はな。亡き辺境伯夫人に似て、もれなく美しいんだが…。ほら、ヴィレも戦場に出ればな。メルタ夫人も子供の頃は…。多分、兄姉妹の中で一番過激な性格だったんじゃないか」
母の意外な一面に、内心でスカイは驚いていた。
メルタがソーン伯爵家に嫁いだとき、社交界でかなり苦労したのだが、侍女頭のマルヤが丁寧に補ってくれ、淑女として育ててくれたのだ。優しく親切であったマルヤが、スカイを苦しめるなどとメルタは考えもしなかった。
「一筆、書くわ!何なら私が直接、ソーン伯爵家へ行って説得してもいい!メルタと一戦交える覚悟よ!お義父様、ご協力くださるわよね?」
イングリッドの好意がスカイにはくすぐったい。何故だか、理由は分からないが、自分が必要とされていること。それが、素直に嬉しかった。
イングリッドのやる気はみなぎっていた。シグニは二つ返事で了承する。
「もちろんじゃ!」
「おいこらっ!待て待て待て待て!」
ヴィゴの手から離れたダグが、手を組んでいるイングリッドとシグニの間に割り込む。
ヴィゴも眉間に皺を寄せて、吐息を漏らした。
「イングリッド夫人、大将、気持ちは分かるが…。まずはスカイ嬢ちゃんの気持ちが大事だろう?」
久しぶりにヴィゴへ近況を知らせるため、ダグはアンカスターへ足を運んだのだが、少しだけ、旅の目的地に選んだことを後悔していた。




