イノシシと元婚約者
スカイは今日の夕食のために獲物を狙っていた。
爽やかな風が吹き、朝露に煌めく青草がそよいでいた。その草の合間から大きな毛むくじゃらの尻が見え隠れしている。スカイは青草を無心に食べるイノシシを発見した。毛並みが露に濡れて艶やかに光っている。
スカイは頑丈な枝ぶりの大木の上からイノシシに狙いを定めた。
呼吸を整え、スカイは静かにかつ慎重に弓をつがえる。
一瞬、風が凪いだ。弦のしなり、乾いた音が響いた。
イノシシの心臓を狙うも、スカイの殺気を感じ取ったか、矢を放つ瞬間に獲物は逃げ出した。
矢は背に浅く突き立つも、イノシシは倒れることもなく、勢いよく走り去る。
「手負いの獣は危険だ。必ず仕留めろ」
ダグの教えだ。
スカイは責任を自覚して、枝から飛び降り、イノシシを追いかけた。
そこにのんびりと木陰で涼んでいる男が一人。その男は不意に現れたイノシシに慄き、大声で叫んだ。
「なっ!なんでイノシシ!」
突如、イノシシは方向を変え、男を目掛けて猪突猛進。
「バカなの?」
男の行動に、スカイは思わず声を漏らした。イノシシは人の声に刺激され、鼻を鳴らす。
イノシシの脚の根元へ矢を射る。イノシシは男の直前で前のめりに滑っていく。
イノシシの血走った眼で睨みつけられ、男は呆気なく気絶した。
スカイは速やかにまだ息のあるイノシシの頚動脈へナイフを入れた。
手早く、イノシシの脚へロープを巻きつけ、近くの丈夫な枝へ逆さに括り付けると、慣れた手つきで内臓を取り出し、少し離れた場所へ投げ捨てる。
「血抜きするときは少し高い位置から吊るせ。すぐ獣が血の匂いを嗅ぎつけてやってくるから、取り出した内臓は遠くに捨てた方がいい。あと烏にやられないように布で身体を覆うことだな」
真剣な顔で指導するダグの言葉を思い出し、スカイは手順を踏む。イノシシには麻布を被せた。
ダグはダンヴァース王国へ旅立った。スカイがあの小屋に一人で暮らし始めて、二週間ぐらい経つ。
隣国へ向かう前にスカイへ狩猟を叩き込んだ。燻製肉はまだ倉庫に備蓄があったが、森で生活していく上で狩猟は欠かせない。
「お前…。凄いなぁ」
ほんの少し伝授しただけで、スカイは野うさぎを一撃で仕留めた。
「んっ、何が?」
スカイは通常の令嬢に比べて遥かに身体能力が高い。拾った当初のぽっちゃり体型でダグは騙されていたのだが、スカイの狩りの腕はメキメキと上達した。
天賦の才能と言ってよいほどだ。
ダグさえも、無意識にスカイを見た目で判断していたのだろう。
ダグは反省した。
「お前、身内に武勲に優れた人とかいた?」
「知らない…」
スカイはデビュタントのために、フィオナからあらゆる事を教えられたが、母方の家門などは知らされていない。
とにもかくにも、家系の血統などは二の次で、フィオナは短い期間で礼儀作法やダンスなどをスカイへ叩き込まないといけなかった。
社交界で姉を軽んじられたくなかったからだ。
アンカスター辺境伯の孫娘だとはスカイ本人の与り知らぬことだった。
無心にイノシシの下処理をしていたスカイはふと男へ目を向けた。
貴族らしい陶器のような白い肌、まるで青い血が流れているかのように冷ややかだ。瞼を覆っていた漆黒の髪が揺れる。額から前髪が零れ、ゆっくりと目を開けた。金色に輝く冷淡な眼差しで周囲を見渡す。
彼の目の前にはナイフを握った血塗れのスカイと、吊されたイノシシ。イノシシは麻布で覆われていたが、その下の草は血溜まりで真っ赤に染まっていた。
「フゥッ…」
口元に白い泡を浮かべて、再び男は目を瞑った。
「嘘でしょ?」
そのとき、スカイはその男の正体に気づくも、呆れたのはそれが原因ではなく…。
「ちょっと、起きてよ!」
イノシシの血に誘われて、そろそろ獣が動き出す頃だ。
男を置き去りにすれば、間違いなく、この男…。スカイの元婚約者ラグナルは、クマやオオカミの餌食になるだろう。
スカイの肩はイノシシを担ぐためのものであって、ラグナルを担ぐものではない。ないのだが…。人としてスカイは放置が出来なかった。
泣く泣くスカイはイノシシの背ロースだけを削ぎ、ロープをナイフで断つ。
「ああ、もうっ!もったいないおばけが出るじゃない!」
ダグの口癖がスカイの口から出る。
スカイは弓袋を背中へ斜めに掛け直すと、ラグナルを背負い、その場を離れた。




