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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第九話 回廊の沈黙

第九話 回廊の沈黙


 期限の前日になった。


 朝から雨だった。


 窓を叩く雨音が、屋敷全体を静かに包んでいた。薔薇庭園には出られない。ソフィアは室内で過ごすことにして、残りの書簡の整理を続けた。引き継ぎのための覚え書きも、ほぼ書き終わっていた。


 午後になって、雨は小降りになった。


 ソフィアは気分転換に、屋敷の中を少し歩くことにした。広いヴァルト侯爵邸には、使用人たちもほとんど立ち入らない回廊がある。石造りの長い廊下で、古い絵画や装飾品が並んでいる場所だ。ソフィアは嫁いだ頃から、気持ちを落ち着けたいときにここへ来ていた。


 部屋を出ようとしたとき、マリアが小さく声をかけてきた。


「奥様、先ほど旦那様がお探しでございました」


「そう。どこにいるかはわかる?」


「書斎にいらっしゃると思います」


「わかったわ。少し歩いてから戻るとお伝えしておいて」


 マリアが頷いて下がった。ソフィアは廊下へと出た。


 回廊に入ると、外の雨音がくぐもって聞こえた。


 石の壁に沿って、歴代のヴァルト侯爵夫人の肖像画が並んでいた。いずれも気品のある顔立ちで、どこか遠くを見ている目をしていた。ソフィアはその前をゆっくりと歩きながら、自分もいつかここに並ぶはずだったのだと、ふと思った。


 しかしそれは、なくなった。


 絵画の前で足を止め、一番奥の肖像画を見上げた。先代の侯爵夫人だろうか。白髪の、穏やかな顔をした女性だった。その目は、他の肖像画とは少し違って、どこかを見ているのではなく、見ている者をまっすぐに見返しているようだった。


 ——あなたは、幸せでしたか。


 心の中で問いかけてみた。答えは返ってこない。ただ、その目はソフィアをまっすぐに見ていた。


 足音が聞こえたのは、そのときだった。


 回廊の入口から、誰かが入ってくる気配がした。ソフィアは振り返らなかった。しかしその足音は、聞き慣れた足音だった。


 セイルが、回廊に入ってきた。


 ソフィアはゆっくりと振り返った。セイルは入口近くで立ち止まり、ソフィアを見ていた。今日は外出着ではなく、シンプルな室内着だった。珍しく、疲れた顔をしていた。


「……ここにいたのか。マリアから聞いて来た」


「ええ。よく来る場所なので」


「知らなかった」


 セイルが、静かに言った。責めているわけでも、驚いているわけでもない。ただ、知らなかったという事実を、そのまま口にしたような言い方だった。


 ソフィアも何も言わなかった。


 セイルは少しためらってから、回廊の中へと歩いてきた。ソフィアの隣に並び、同じように肖像画を見上げた。二人並んで、先代の侯爵夫人の絵を見ていた。


「この方は、誰ですか」


「先代の侯爵夫人だと思います。名前は存じませんが、目が印象的で、よく見に来ていました」


「……そうか」


 また沈黙が落ちた。


 雨音が、遠くから届いてくる。回廊の石の壁が冷たく、ひんやりとした空気が漂っていた。二人の間には、言葉の代わりに静寂だけがあった。


 しばらくして、セイルが口を開いた。


「レイナが、お前のところへ行ったと使用人から聞いた」


 ソフィアは肖像画から目を離さなかった。


「ええ、昨日いらっしゃいました」


「……何を話した」


「離縁を思いとどまるよう、説得しに来られたようです」


 セイルが、低く息を吐いた。


「余計なことを」


 その一言は、レイナに向けたものだった。ソフィアはそれを聞いて、少しだけ意外に思った。レイナの行動を、セイルは快く思っていないのか。それとも、ソフィアの前でそう言うことが、彼なりの誠実さなのか。


「レイナ様はセイル様を心配してのことだと思います。責めるつもりはありません」


「お前は……本当に、怒らないのだな」


 セイルが、ソフィアを見た。


「怒る気力も、もうありませんので」


 穏やかに言った。嘘ではなかった。怒りはとうに通り過ぎていた。残っているのは、静かな疲労だけだ。


 セイルはそれを聞いて、また黙った。肖像画に視線を戻し、しばらく動かなかった。


「……明日が、期限だな」


「はい」


「わかった」


 それだけだった。署名するとも、しないとも言わなかった。ただ、わかった、とだけ言った。


 ソフィアはそれ以上聞かなかった。署名がなければないで、王都の書士に相談すればいい。覚悟はとうにできていた。明日になれば、どちらにせよ答えは出る。


 二人はしばらく、並んで回廊に立っていた。


 雨音が少しずつ遠くなっていく。窓の外が、薄く明るくなり始めていた。雨が上がりかけているのかもしれない。


「一つ、聞いてもいいか」


 セイルが、静かに言った。


「何でしょう」


「この五年間、辛かったか」


 ソフィアは少し考えてから、答えた。


「辛いというより、寂しかったです」


 セイルは何も言わなかった。


「広い屋敷に二人でいるのに、ずっと一人でした。それがただ、寂しかった」


 言葉は穏やかだった。泣くつもりも、責めるつもりもなかった。ただ、聞かれたから、答えた。それだけのことだった。


 セイルの喉が、小さく動いた。何かを言おうとして、やめたのかもしれない。ただ、その横顔が、ほんの少しだけ歪んで見えた。


 ——気のせいかもしれない。


 ソフィアは肖像画に目を戻した。先代の侯爵夫人は、変わらずソフィアをまっすぐに見ていた。


「そろそろ戻ります。夕食の指示をしなければなりませんので」


「……ああ」


 ソフィアは軽く礼をして、回廊を歩き出した。セイルは動かなかった。


 回廊を出る直前に、ソフィアは一度だけ振り返った。


 セイルはまだそこに立っていた。先代の侯爵夫人の肖像画の前で、一人で、ただ立っていた。その背中が、今日は少しだけ小さく見えた。


 ソフィアは何も言わず、回廊をあとにした。


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