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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第十話 冷めたお茶

第十話 冷めたお茶


 期限の朝が来た。


 ソフィアはいつもより早く目を覚ました。まだ夜明け前で、窓の外は薄い藍色をしていた。昨日の雨は上がり、空気が洗われたように澄んでいた。


 今日、決まる。


 そう思っても、心は凪いでいた。緊張でも、期待でも、恐れでもない。ただ静かな、覚悟だけがあった。


 身支度を整え、朝食の席へと向かった。


 セイルは、いた。


 珍しいことだった。セイルが朝食の席でソフィアより先に来ていたのは、五年間で数えるほどしかなかった。いつもは出仕の直前に慌ただしく席に着くか、すでに出かけたあとにソフィアが一人で朝食をとるかのどちらかだった。


 ソフィアは表情を動かさずに席に着いた。


「おはようございます」


「……ああ」


 セイルは手元のカップを見たまま、短く答えた。テーブルの上には紅茶が用意されていたが、湯気が立っていなかった。しばらく前から席に着いていたのだろう。


 使用人がソフィアの分の朝食を運んでくる。スープ、パン、果物。いつもと変わらない朝食だった。しかし今日は、最後の朝食になるかもしれなかった。


 二人は黙って食事をした。


 フォークとナイフが皿に触れる音だけが、静かな食堂に響いた。窓の外では、夜明けの光が少しずつ広がっていた。鳥の声が聞こえ始め、庭の薔薇が朝の光の中に姿を現した。


 セイルが、カップを置いた。


「ソフィア」


 名前を呼ばれた。


 ソフィアは手を止めた。セイルがソフィアの名前を呼んだのが、いつ以来かわからなかった。第三話で言ったように、いつだったか思い出せないほど、久しかった。


「署名した」


 静かな一言だった。


 ソフィアはすぐには答えなかった。胸の奥で何かが動いた気がしたが、それが何なのか、うまく掴めなかった。安堵なのか、悲しみなのか、あるいはその両方なのか。


「……ありがとうございます」


 それだけ言えた。他の言葉が、出てこなかった。


 セイルは懐から折り畳んだ書状を取り出し、テーブルの上に置いた。ソフィアが一週間前に渡した離縁状だった。広げると、セイルの署名が、丁寧な筆跡で記されていた。


 ソフィアはそれをしばらく見つめてから、静かに折り畳んだ。


「いつ出発する」


「今日の午後には。荷物はほぼ整っていますので」


「そうか」


 また沈黙が落ちた。セイルは冷めた紅茶を一口飲んだ。ソフィアはスープを一口だけ飲んで、スプーンを置いた。食欲はなかった。


「行き先は、決まったのか」


「はい。王都から三日ほど離れた、小さな町に知人がおりますので。しばらくそちらに世話になろうと思っています」


 セイルが少し驚いた様子だった。


「知人とは」


「嫁ぐ前の友人です。侯爵夫人としての立場上、嫁いでからはどうしても疎遠になっておりました。ただいつか出ていく日のために、以前から少しずつ連絡を取り戻していたのです。先日手紙を出したところ、快く迎えると言ってくれましたので」


「……そうか」


 セイルはそれ以上聞かなかった。窓の外に目をやり、しばらく黙っていた。朝の光が食堂に差し込み、テーブルの上を暖かく照らしていた。


「一つだけ、聞いてもいいか」


 セイルが、窓の外を見たまま言った。


「何でしょう」


「やり直す気は、ないのか」


 ソフィアは少し考えてから、答えた。


「セイル様は、やり直したいとお思いですか」


 問い返した。セイルは窓の外から目を離し、ソフィアを見た。その目に、何かが揺れていた。しかしソフィアはその揺れを、今更受け取ることができなかった。


「……わからない」


「正直に答えてくださってありがとうございます」


 ソフィアは静かに言った。


「わからない、というお答えが、私には十分です。やり直すということは、お互いがそれを望まなければ意味がありません。セイル様がわからないとおっしゃるなら、私の答えも変わりません」


 セイルは何も言わなかった。


 ソフィアは立ち上がり、テーブルの上の離縁状をそっと手に取った。


「五年間、お世話になりました」


 丁寧に、深く、礼をした。顔を上げたとき、セイルはソフィアをまっすぐに見ていた。その目が、昨日の回廊での横顔と同じように、ほんの少し歪んでいた。


 ——泣きそうな顔だ。


 そう思った瞬間、ソフィアの胸の奥がじんとした。五年間、この人の泣く顔を見たことがなかった。笑う顔も、ほとんど見たことがなかった。感情を表に出さない人だと思っていた。


 しかし今、目の前にいるセイルは、確かに何かを必死に堪えているように見えた。


 ——これ以上、見ていたくない。


 ソフィアは視線を外した。五年間かけて固めた決意を、今更崩すわけにはいかない。この人の顔を見続けていたら、自分が自分でなくなる気がした。


「どうかお体に気をつけて」


 それだけ言って、ソフィアは食堂を出た。


 廊下に出ると、足が少しだけ震えた。壁に手をついて、深呼吸を一つした。泣かない。ここでは泣かない。


 自室に戻りながら、ソフィアは手の中の離縁状を握りしめた。


 署名された離縁状は、思ったより軽かった。しかしその軽さが、今は少しだけ、重く感じられた。


 ——これでよかった。


 ソフィアは自分に言い聞かせながら、廊下を歩き続けた。窓の外では、薔薇庭園が朝の光の中で鮮やかに輝いていた。


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