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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第十一話 旅立ちの日

第十一話 旅立ちの日


 屋敷を出たのは、その日の午後だった。


 荷物は思ったより少なかった。五年間暮らした屋敷なのに、本当に自分のものだと思えるものは、そう多くなかった。衣類、数冊の本、嫁ぐ前から持っていた小物入れ、そして引き出しの奥にしまっておいた刺繍の薔薇。それだけで、トランクは半分も埋まらなかった。


 馬車が屋敷の前に用意された。


 使用人たちが並んで見送ってくれた。五年間、共に過ごした顔ぶれだった。料理長の老人は目を赤くしていた。庭師の若者は俯いていた。みんな、何も言わなかった。それがかえって、ソフィアには胸に沁みた。


「皆さん、長い間お世話になりました」


 ソフィアは一人ひとりに丁寧に礼をした。完璧な侯爵夫人の礼ではなく、ただ心からの礼を。


 セイルは、いなかった。


 朝食のあと、公務に出たまま戻っていなかった。見送りに来ないことを、ソフィアは責めなかった。向き合う言葉が見つからなかったのかもしれない。あるいは、見送れば引き止めてしまうと思ったのかもしれない。どちらにしても、今のセイルらしかった。


 ——公務という名の壁。


 五年間、何度その壁に阻まれたかわからない。夫婦の時間も、会話も、すべてその壁の向こうに消えていった。最後の日も、その壁は変わらなかった。それがむしろ、ソフィアには納得できた。これが、この五年間だったのだから。


 マリアが隣に立った。


「参りましょうか、奥様」


「ええ」


 馬車に乗り込もうとしたとき、屋敷の扉が開いた。


 ソフィアは振り返った。


 セイルだった。


 息を切らしていた。外套が少し乱れていた。普段の整然とした姿からは考えられない様子で、門の前に立っていた。公務の途中で抜け出してきたのかもしれない。ソフィアと目が合うと、一瞬だけ立ち止まった。


 何かを言おうとしているのが、わかった。しかし言葉が出てこないのも、わかった。


 ソフィアは先に口を開いた。


「来てくださったのですね」


「……間に合って、よかった」


 セイルの声は、いつもより低く、掠れていた。


 二人は門の前で向き合った。使用人たちが静かに距離を置いた。マリアも、そっと馬車の陰に下がった。


 セイルは何かを言おうとして、また黙った。ソフィアは待った。急かさなかった。五年間待ち続けた女に、今更急ぐ理由はなかった。


「……すまなかった」


 絞り出すような一言だった。


 ソフィアは少しだけ目を見開いた。セイルから謝罪の言葉を聞いたのは、五年間で初めてのことだった。


「何に対して、謝ってくださっているのですか」


「五年間、お前の名前をまともに呼ばなかったこと。隣にいながら、見ようとしなかったこと。レイナのこと。……全部に対して、だ」


 セイルはまっすぐにソフィアを見ていた。その目に、いつもの遠さはなかった。ただ、深く、静かな後悔の色があった。


「今更と言われても仕方がない。遅すぎることもわかっている。それでも、行ってしまう前に言わなければならないと思った」


 ソフィアは静かに聞いていた。


 風が吹いた。ソフィアの白銀の髪が、静かに揺れた。


 胸の奥がじんとした。五年間、ずっと聞きたかった言葉だった。しかし今この言葉を聞いても、もう何も変わらないこともわかっていた。


「……ありがとうございます」


 ソフィアは静かに言った。


「その言葉、ちゃんと受け取りました」


「ソフィア——」


「でも」


 穏やかに、しかしはっきりと遮った。


「もう少し早く、その言葉をいただきたかったです」


 セイルは、黙った。


 反論できなかったのだろう。ただ、その目が、かすかに揺れた。


 ソフィアはもう一度、深く礼をした。


「どうかお元気で、セイル様」


 それだけ言って、馬車に乗り込んだ。マリアが続いて乗り込み、扉が閉まった。


 馬車がゆっくりと動き出した。


 ソフィアは窓の外を見なかった。見たら、きっと後悔する。見たら、きっと泣いてしまう。だからただ、正面を向いたまま、静かに座っていた。


 マリアが、そっと手を握ってくれた。


 何も言わなかった。ただ、握ってくれた。それだけで、ソフィアは少しだけ息ができた。


 屋敷が遠ざかっていく。


 王都の石畳が、馬車の車輪の下を流れていく。五年間歩いた道が、少しずつ後ろへと消えていく。


 ソフィアはようやく、小さく目を閉じた。


 ——さようなら。


 声には出さず、心の中だけで言った。誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからなかった。あの屋敷に対してか。五年間の日々に対してか。それとも、間に合って駆けつけてきたあの人に対してか。


 馬車は王都の大通りを抜け、城門へと向かった。


 城門をくぐる瞬間、ソフィアはそっと目を開けた。


 窓の外に、王都の景色が広がっていた。石造りの建物、並木道、行き交う人々。嫁いできた日に見た景色と、何も変わっていなかった。ただ、見ている自分だけが、あの頃とは違っていた。


 城門が後ろに遠ざかり、王都が小さくなっていく。


 ソフィアは前を向いたまま、静かに呼吸をした。


 五年分の涙は、もうとっくに枯れていた。だから泣かなかった。ただ、胸の奥に小さな痛みだけが残って、それがしばらく消えなかった。


 ——これでいい。


 前を向いたまま、ソフィアは静かに呟いた。


 馬車は王都を離れ、新しい道へと進んでいった。


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