第十二話 王都を離れて
第十二話 王都を離れて
馬車は三日かけて、王都から離れた小さな町へと向かった。
最初の日は、ほとんど眠れなかった。
馬車の揺れの中で、目を閉じるたびにセイルの顔が浮かんだ。息を切らして現れた夫の姿。掠れた声で「すまなかった」と言ったときの目。五年間で初めて見た、あの後悔の色。
——考えても仕方がない。
そう自分に言い聞かせても、なかなか頭から離れなかった。ソフィアは窓の外に流れる景色を眺め続けた。王都の石畳が消え、緑の野原が広がり、小さな村が現れては消えた。
マリアは隣で静かにしていた。
気を遣ってくれているのがわかった。話しかけてほしいときは話しかけてくれる。黙っていてほしいときは黙っていてくれる。五年間、この侍女の気遣いに何度救われたかわからない。
夕刻になって、一行は街道沿いの宿に泊まった。
宿の部屋は小さかったが、清潔だった。侯爵夫人として過ごした広い寝室とは比べ物にならない。しかしソフィアには、この小さな部屋の方がなぜか落ち着いた。広すぎる部屋で一人でいるより、こじんまりとした場所の方が、息ができる気がした。
夕食をとりながら、マリアが静かに口を開いた。
「奥様、少しお顔の色がよくなりましたね」
「そうかしら」
「はい。王都にいる頃より、ずっと」
ソフィアは窓の外の夕焼けを見た。宿の窓から見える景色は、王都とは違う。石造りの建物ではなく、緑の丘と夕焼け空だった。
「……そうかもしれないわね」
自分でも、少し驚いていた。屋敷を出たばかりなのに、すでに何かが軽くなっている気がした。五年間、気づかないうちにどれほど重いものを背負っていたのか、離れて初めてわかった。
二日目は雨だった。
馬車の中で、ソフィアは持ってきた本を読んだ。嫁ぐ前から好きだった詩集だ。侯爵夫人として過ごした五年間、ゆっくり本を読む時間などほとんどなかった。ページをめくるたびに、忘れていた何かが少しずつ戻ってくる気がした。
昼過ぎに雨が上がった。
街道沿いに、野花が咲いていた。白い小さな花が、雨上がりの光の中で輝いていた。薔薇ほど華やかではない。しかしその素朴な美しさが、今のソフィアには心地よかった。
「マリア、少し止めてもらえる?」
「はい、奥様」
馬車を止めてもらい、ソフィアは外に出た。
雨上がりの空気が、冷たくて澄んでいた。深呼吸をすると、草と土と花の匂いがした。王都では感じたことのない匂いだった。
ソフィアはしゃがんで、野花を一輪だけ摘んだ。小さな白い花。名前も知らない花。しかしその花を手のひらに乗せたとき、ソフィアは初めて、泣いた。
声は出なかった。
ただ、涙が静かに落ちた。一粒、二粒。止めようとしなかった。五年間飲み込んできたものが、ようやく出口を見つけた気がした。
マリアが隣にしゃがんだ。
何も言わなかった。ただ、静かにそこにいてくれた。
しばらくして、ソフィアは涙を拭いた。
「……ごめんなさい。みっともないわね」
「いいえ」
マリアは首を振った。
「奥様は五年間、人前では一度も泣かれませんでした。今日くらい、泣いてください」
その言葉で、また涙が出た。
五年間、人前では一度も泣かなかった。侯爵夫人として、誰かに弱いところを見せることができなかった。マリアの前でさえ、ずっと堪えていた。一人の夜に、涙が出そうになっても、いつの間にか枯れていた。
それが今、街道の脇で、野花を持ったまま泣いていた。
——みっともなくていい。
誰も知らない場所で、誰も見ていない場所で、ただの一人の女として泣いていい。そう思ったら、少しだけ楽になった。
泣き終わって立ち上がると、空が晴れていた。
雲の切れ間から光が差し込み、街道を金色に照らしていた。ソフィアは手の中の野花を見てから、そっと街道の脇の草の上に置いた。
「行きましょう」
「はい、奥様」
馬車に戻りながら、ソフィアは少しだけ身体が軽くなったのを感じた。
三日目の朝、目的地の町が見えてきた。
丘の上から見下ろすと、小さな町が朝の光の中に広がっていた。赤い屋根の家々、石畳の広場、町の中心に建つ小さな教会。王都の華やかさとは無縁の、穏やかな町だった。
「あそこね」
ソフィアは窓の外を見ながら、静かに言った。
町の入口で馬車を止めると、一人の女性が出迎えに来ていた。
茶色の髪を緩く結い上げた、三十代ほどの女性だった。ソフィアの顔を見るなり、その目が潤んだ。
「ソフィア……!久しぶりね」
「エミリア。会えてよかった」
二人は軽く抱き合った。エミリアとは子供の頃からの幼馴染で、身分に関係なくいつも気さくに接してくれる、数少ない友人だった。今はこの町で夫と小さな薬草店を営んでいる。手紙を出したとき、すぐに返事をくれた。来なさい、いつまでいてもいいから、と。
「痩せたんじゃない?大丈夫?」
「大丈夫よ。少し疲れていただけ」
「嘘ばっかり」
エミリアは笑いながら、ソフィアの手を引いた。
「とにかく来て。ご飯作って待ってたから」
ソフィアは少しだけ笑った。
侯爵夫人として過ごした五年間で、こんなふうに気軽に手を引いてくれる人はいなかった。立場も、礼儀も、何も関係なく、ただ友人として接してくれる人が。
——ここに来て、よかった。
エミリアの家へと続く石畳の道を歩きながら、ソフィアは静かにそう思った。頭上では青い空が広がり、町の教会の鐘が穏やかに鳴り響いていた。




