表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/27

第十二話 王都を離れて

第十二話 王都を離れて


 馬車は三日かけて、王都から離れた小さな町へと向かった。


 最初の日は、ほとんど眠れなかった。


 馬車の揺れの中で、目を閉じるたびにセイルの顔が浮かんだ。息を切らして現れた夫の姿。掠れた声で「すまなかった」と言ったときの目。五年間で初めて見た、あの後悔の色。


 ——考えても仕方がない。


 そう自分に言い聞かせても、なかなか頭から離れなかった。ソフィアは窓の外に流れる景色を眺め続けた。王都の石畳が消え、緑の野原が広がり、小さな村が現れては消えた。


 マリアは隣で静かにしていた。


 気を遣ってくれているのがわかった。話しかけてほしいときは話しかけてくれる。黙っていてほしいときは黙っていてくれる。五年間、この侍女の気遣いに何度救われたかわからない。


 夕刻になって、一行は街道沿いの宿に泊まった。


 宿の部屋は小さかったが、清潔だった。侯爵夫人として過ごした広い寝室とは比べ物にならない。しかしソフィアには、この小さな部屋の方がなぜか落ち着いた。広すぎる部屋で一人でいるより、こじんまりとした場所の方が、息ができる気がした。


 夕食をとりながら、マリアが静かに口を開いた。


「奥様、少しお顔の色がよくなりましたね」


「そうかしら」


「はい。王都にいる頃より、ずっと」


 ソフィアは窓の外の夕焼けを見た。宿の窓から見える景色は、王都とは違う。石造りの建物ではなく、緑の丘と夕焼け空だった。


「……そうかもしれないわね」


 自分でも、少し驚いていた。屋敷を出たばかりなのに、すでに何かが軽くなっている気がした。五年間、気づかないうちにどれほど重いものを背負っていたのか、離れて初めてわかった。


 二日目は雨だった。


 馬車の中で、ソフィアは持ってきた本を読んだ。嫁ぐ前から好きだった詩集だ。侯爵夫人として過ごした五年間、ゆっくり本を読む時間などほとんどなかった。ページをめくるたびに、忘れていた何かが少しずつ戻ってくる気がした。


 昼過ぎに雨が上がった。


 街道沿いに、野花が咲いていた。白い小さな花が、雨上がりの光の中で輝いていた。薔薇ほど華やかではない。しかしその素朴な美しさが、今のソフィアには心地よかった。


「マリア、少し止めてもらえる?」


「はい、奥様」


 馬車を止めてもらい、ソフィアは外に出た。


 雨上がりの空気が、冷たくて澄んでいた。深呼吸をすると、草と土と花の匂いがした。王都では感じたことのない匂いだった。


 ソフィアはしゃがんで、野花を一輪だけ摘んだ。小さな白い花。名前も知らない花。しかしその花を手のひらに乗せたとき、ソフィアは初めて、泣いた。


 声は出なかった。


 ただ、涙が静かに落ちた。一粒、二粒。止めようとしなかった。五年間飲み込んできたものが、ようやく出口を見つけた気がした。


 マリアが隣にしゃがんだ。


 何も言わなかった。ただ、静かにそこにいてくれた。


 しばらくして、ソフィアは涙を拭いた。


「……ごめんなさい。みっともないわね」


「いいえ」


 マリアは首を振った。


「奥様は五年間、人前では一度も泣かれませんでした。今日くらい、泣いてください」


 その言葉で、また涙が出た。


 五年間、人前では一度も泣かなかった。侯爵夫人として、誰かに弱いところを見せることができなかった。マリアの前でさえ、ずっと堪えていた。一人の夜に、涙が出そうになっても、いつの間にか枯れていた。


 それが今、街道の脇で、野花を持ったまま泣いていた。


 ——みっともなくていい。


 誰も知らない場所で、誰も見ていない場所で、ただの一人の女として泣いていい。そう思ったら、少しだけ楽になった。


 泣き終わって立ち上がると、空が晴れていた。


 雲の切れ間から光が差し込み、街道を金色に照らしていた。ソフィアは手の中の野花を見てから、そっと街道の脇の草の上に置いた。


「行きましょう」


「はい、奥様」


 馬車に戻りながら、ソフィアは少しだけ身体が軽くなったのを感じた。


 三日目の朝、目的地の町が見えてきた。


 丘の上から見下ろすと、小さな町が朝の光の中に広がっていた。赤い屋根の家々、石畳の広場、町の中心に建つ小さな教会。王都の華やかさとは無縁の、穏やかな町だった。


「あそこね」


 ソフィアは窓の外を見ながら、静かに言った。


 町の入口で馬車を止めると、一人の女性が出迎えに来ていた。


 茶色の髪を緩く結い上げた、三十代ほどの女性だった。ソフィアの顔を見るなり、その目が潤んだ。


「ソフィア……!久しぶりね」


「エミリア。会えてよかった」


 二人は軽く抱き合った。エミリアとは子供の頃からの幼馴染で、身分に関係なくいつも気さくに接してくれる、数少ない友人だった。今はこの町で夫と小さな薬草店を営んでいる。手紙を出したとき、すぐに返事をくれた。来なさい、いつまでいてもいいから、と。


「痩せたんじゃない?大丈夫?」


「大丈夫よ。少し疲れていただけ」


「嘘ばっかり」


 エミリアは笑いながら、ソフィアの手を引いた。


「とにかく来て。ご飯作って待ってたから」


 ソフィアは少しだけ笑った。


 侯爵夫人として過ごした五年間で、こんなふうに気軽に手を引いてくれる人はいなかった。立場も、礼儀も、何も関係なく、ただ友人として接してくれる人が。


 ——ここに来て、よかった。


 エミリアの家へと続く石畳の道を歩きながら、ソフィアは静かにそう思った。頭上では青い空が広がり、町の教会の鐘が穏やかに鳴り響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ