第八話 レイナの本性
第八話 レイナの本性
期限まで、あと二日になった。
セイルからの返事は、まだなかった。
昨日の馬車での会話が、ソフィアの頭の片隅に残っていた。後悔しないのか、と聞いてきたセイルの声。あの問いは、引き止めたかったのか。それとも、ただ確認したかっただけなのか。どちらとも取れる問いだった。
考えても仕方がない。
ソフィアは午前中の家事の指示を済ませ、午後は書簡の整理をしていた。この屋敷を出るにあたって、処理しておくべき書類がいくつかある。領地の管理に関わるものは後任の者に引き継ぐ必要があった。五年間、ソフィアが一人で担ってきた仕事だ。
そこへマリアが、少し緊張した様子で部屋に入ってきた。
「奥様、レイナ・フォン・アルヴァ様がお見えになっています」
ソフィアは書簡から目を上げなかった。
「……何の用かしら」
「お茶をご一緒したいと。アポイントなしでいらっしゃいました」
ソフィアはしばらく書簡を見つめてから、静かに置いた。
「通してちょうだい」
マリアが心配そうな顔をした。ソフィアは小さく首を振った。逃げるつもりはなかった。むしろ、一度きちんと向き合っておく必要があると思っていた。
応接室に移ると、まもなくレイナが入ってきた。
深緑のドレスに亜麻色の髪を緩く結い上げた姿は、相変わらず華やかだった。社交的な笑顔を浮かべ、部屋に入るなりソフィアに向かって優雅に礼をした。
「突然お邪魔してしまって申し訳ありませんわ、侯爵夫人。どうしてもお話ししたいことがあって」
「お構いなく。どうぞお座りください」
二人は向かい合わせに座った。マリアが紅茶を用意し、静かに下がった。部屋には二人だけになった。
レイナはカップを手に取り、微笑んだ。
「実は、セイル様からお話を伺いまして」
ソフィアは表情を動かさなかった。
「どのようなお話でしょうか」
「離縁のことですわ」
レイナはあっさりと言った。隠す気も、遠回しにする気もない口調だった。その直截さが、かえってソフィアには不快だった。
「……セイル様が、あなたにそれを話したのですか」
「ええ。昨夜、セイル様が私のところへいらして。随分と思い詰めたご様子でしたので」
昨夜。馬車で帰宅したあと、セイルはレイナのところへ出向いていたのか。ソフィアは胸の奥でそれを静かに処理した。驚きはなかった。ただ、確認できてしまったという感覚があった。
——やはり、そういうことか。
妻に離縁状を渡された夜に向かう場所が、そこなのだ。五年間の答えが、今更ながらに形をなした気がした。
「それで、私に何をお話ししたくていらしたのですか」
「離縁を思いとどまっていただきたいのです」
レイナの目が、初めて笑顔と乖離した。微笑みはそのままに、目の奥だけが真剣になっていた。
「セイル様はとても苦しんでいらっしゃいます。あなたが離縁状を渡してから、ずっと。私はセイル様のことが心配で」
「……それは奇妙なお話ですね」
ソフィアは静かに言った。
「夫が苦しんでいるとおっしゃるなら、その原因の一端があなたにもあるとは思いませんか」
レイナの表情が、わずかに揺れた。しかしすぐに元の微笑みに戻った。
「私とセイル様の間には、何もありませんわ。誤解をされているようですが」
「誤解かどうかは、私が判断することです」
ソフィアは穏やかに、しかしはっきりと言った。
——この女が離縁を思いとどまるよう頼む理由は何か。
離縁が成立すれば、セイルは自由になる。それはレイナにとって好都合のはずだ。それでも反対するのは、自分が原因だと世間に思われたくないからか。あるいはセイルに感謝されることで、さらに心を掴もうとしているのか。どちらにしても、ソフィアのためではないことだけは確かだった。
「レイナ様、一つお伺いしてもよろしいですか。あなたは今日、本当に私のために来たのですか。それとも、セイル様のために来たのですか」
レイナは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「セイル様が苦しんでいるとしたら、それはセイル様自身が解決すべきことです。私への離縁の申し出を撤回することが、セイル様の苦しみを取り除くとは限りません」
「でも——」
「それに」
ソフィアは静かに遮った。カップをソーサーに置き、レイナをまっすぐに見た。
「私の決断を変えられるのは、私だけです。セイル様でも、あなたでもありません」
レイナは口を閉じた。
しばらくの間、二人は向かい合ったまま動かなかった。窓から午後の光が差し込み、テーブルの上の紅茶が静かに湯気を立てていた。
やがてレイナが、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかりました。お邪魔してしまって申し訳ありませんでした」
先ほどまでの華やかさが、少し影を潜めていた。ソフィアも立ち上がり、丁寧に礼をした。
「いいえ。わざわざお越しいただいて、ありがとうございました」
レイナが部屋を出ていく。その背中を見送りながら、ソフィアは静かに息を吐いた。
心臓が、少しだけ速く打っていた。
平静を装っていたが、内心では手が震えそうだった。あの女と二人で向き合うことが、これほど消耗するとは思っていなかった。しかし後悔はなかった。言うべきことは言えた。
まもなくマリアが戻ってきた。
「奥様、大丈夫でしたか」
「ええ、大丈夫よ」
ソフィアは窓の外の薔薇庭園に目をやった。今日も薔薇は咲いている。風に揺れながら、ただ静かに咲いている。
——あと二日。
ソフィアは書簡の整理に戻るために、静かに椅子に座り直した。




