第七話 空いた馬車の隣
第七話 空いた馬車の隣
翌朝、セイルから珍しく声をかけられた。
「今日の午後、王宮への報告がある。馬車を使うが、お前も乗るか」
朝食の席での、唐突な一言だった。ソフィアは少し驚いたが、表情には出さなかった。
「王宮へは、何かご用でもありますか」
「いや、お前が用があれば、という話だ。王都に出るついでがあるなら、と思っただけだ」
セイルは視線を手元の皿に落としたまま、そう言った。さりげない口調だったが、こういう誘いをかけてきたことは、五年間で片手で数えられるほどしかなかった。
——なぜ今日、こんなことを。
ソフィアは一瞬考えてから、静かに答えた。
「では、お言葉に甘えます。王都の書士に用がありますので」
セイルの手が、わずかに止まった。
書士という言葉の意味を、彼はすぐに理解しただろう。しかしソフィアはそれ以上何も言わなかった。セイルも聞かなかった。朝食はそのまま、静かに終わった。
午後になって、馬車が屋敷の前に用意された。
ソフィアは薄い水色のドレスに着替え、マリアに髪を整えてもらった。支度をしながら、ソフィアはマリアに声をかけた。
「マリア、少し前に話した件だけれど、本当に構わないの。一緒に来てくれなくても」
「奥様のそばを離れるつもりはございません。どこへでも参ります」
マリアは鏡越しにソフィアを見て、静かにそう言った。迷いのない目だった。ソフィアは小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。
鏡の中の自分を見ながら、これが夫と馬車に乗る最後の機会になるかもしれないと、ふと思った。感傷的になるつもりはなかったが、それでも少しだけ、胸の奥がざわりとした。
「行ってまいります」
「お気をつけて、奥様」
マリアの目が、いつもより少しだけ心配そうだった。ソフィアは小さく微笑んで、部屋を出た。
玄関前では、セイルがすでに待っていた。
濃紺の外套に身を包んだ夫は、ソフィアの姿を見て短く頷いた。それだけだった。褒め言葉も、笑顔も、手を差し伸べることもなかった。五年間、ずっとそうだった。
馬車に乗り込むと、二人は向かい合わせに座った。
御者が扉を閉め、馬車がゆっくりと動き出す。蹄の音と車輪の音が、規則正しく続く。窓の外に王都の街並みが流れていく。石畳の道、並木の緑、行き交う人々。ソフィアは窓の外を眺めながら、この景色も見納めになるかもしれないと思った。
馬車の中は、静かだった。
セイルは腕を組み、窓の外を見ていた。ソフィアも窓の外を見ていた。二人の視線は交わらなかった。しかし馬車という閉じた空間の中では、互いの存在を無視することはできない。セイルの外套の色、その静かな呼吸、膝の上で組まれた手。五年間、隣にいながら遠かった人が、今日は嫌でも目に入った。
しばらくして、セイルが口を開いた。
「……王都を出るのは、いつ頃を考えている」
唐突な問いだった。しかし避ける理由もなかった。
「署名をいただければ、その翌日にでも。荷物の整理は始めております」
「そうか」
また沈黙が落ちた。馬車の揺れだけが続く。
「行き先は」
「まだ決めておりません。しばらくは王都から離れた場所でゆっくりしようと思っています」
「一人でか」
「マリアが一緒に来てくれると言っています」
セイルが、微かに眉を動かした。マリアまで連れていくということは、本当に出ていくつもりなのだと、改めて理解したのかもしれない。
「……マリアを連れていくのか」
「先日話したところ、一緒に来ると言ってくれましたので。無理にとは言っていません」
セイルはそれ以上、マリアのことには触れなかった。窓の外に目を戻し、しばらく黙っていた。馬車が大きな橋を渡る。川の反射光が、車内にちらちらと差し込んだ。
「……後悔しないのか」
低い声だった。責めているのではなく、本当に聞きたいのだという響きがあった。
ソフィアは少し考えてから、窓の外に目を向けたまま答えた。
「後悔があるとすれば、もっと早く自分の気持ちに正直になれなかったことでしょうか」
セイルは何も言わなかった。
馬車がゆっくりと速度を落とし、王宮の門前で止まった。御者が扉を開ける。セイルが先に降り、ソフィアに手を差し伸べた。
五年間で、初めてのことだった。
ソフィアはその手を取り、馬車を降りた。セイルの手は大きく、少し冷たかった。触れていたのは、ほんの数秒だった。それだけなのに、胸の奥がまた、じんとした。
——遅すぎる。
何もかも、遅すぎる。
「では、私はこちらで」
「ああ。帰りは二時間後に、この門前で」
「わかりました」
二人は門前で別れ、それぞれの用へと歩いていった。
ソフィアは王宮の門を背にして、王都の大通りへと向かった。書士のところへ行く用は、本当はなかった。ただセイルに、自分の決意がまだ変わっていないことを、静かに示したかっただけだった。
大通りに出ると、五月の風が頬を撫でた。
人々が行き交い、露店が並び、子供たちの笑い声が聞こえる。王都はいつも通り、賑やかだった。その喧騒の中で、ソフィアはしばらく立ち止まった。
この街を、もうすぐ離れる。
嫁いできた日のことを、少しだけ思い出した。馬車の窓からこの大通りを眺めて、きっとここで幸せになれると信じていた。あの頃の自分に、何と声をかけるべきかわからなかった。
ただ、お疲れ様と言ってあげたかった。
ソフィアはもう一度だけ風を感じてから、ゆっくりと歩き出した。




