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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第五十六話 五月の薔薇【ソフィア視点】

第五十六話 五月の薔薇【ソフィア視点】


 五月になった。


 王都の春は、エミリアの町より少し遅い。だが五月に入ると、一気に色が濃くなる。街路の木々が緑を深め、花売りの店先が賑やかになり、空の青が夏に近づいていく。


 薔薇庭園は、二度目の盛りを迎えていた。


 春先に一度咲いて、少し休んで、また咲く。庭師が言っていた通りだった。今度の花は、最初よりも色が濃く、香りが深かった。


 ソフィアは毎朝、庭に出た。


 水やりは庭師に任せているが、朝の庭を歩くことが習慣になっていた。以前も水やりをしていた。でも、以前は仕事として歩いていた。今は、ただ好きだから歩いている。その違いが、足の運び方に出る気がした。



 ある朝、セイルが庭に出てきた。


 珍しかった。セイルが朝の庭に来ることは、ほとんどなかった。


「どうしたのですか」


「起きたら、あなたがいなかった」


「庭にいると、マリアに言いましたが」


「聞いていなかった」


 少し不服そうな言い方だった。ソフィアは少し笑った。


「一緒に歩きますか」


「せっかく来たから」


 素っ気なかった。でも、それがセイルだった。せっかく来たから、という言葉の裏に、来たかったから来た、という本音があることを、今のソフィアは知っていた。


 二人で、庭の小道を歩いた。


 朝の光が、薔薇の花びらを透かしていた。露が残っていた。赤い花びらに、小さな水滴が光っていた。


「きれいですね」


「ああ」


「毎年、こうして咲くんですね」


「そうだな」


 会話は少なかった。でも、沈黙が埋まっていた。二人で歩いているだけで、何かが満ちている感じがあった。


 桃色の薔薇の前で、ソフィアは立ち止まった。


「これが一番好きです、やっぱり」


「意味がないから?」


「ええ。ただ綺麗だから植えた。それだけのものが、こうして毎年咲く。なんだか……そういうものでいいと思えて」


 セイルは桃色の薔薇を見た。


「俺も、これが一番好きになった」


 ソフィアは少し驚いて、セイルを見た。


「いつから?」


「あなたが理由を話してから。意味のないものが一番自分らしいと言った。その言葉が、ずっと残っていた」


 ソフィアは、その言葉を静かに受け取った。


 第三十七話で話したことを、セイルはずっと覚えていた。花を見るたびに、その言葉を思い出していた。


——この人は、ちゃんと聞いていた。


 聞いて、覚えていた。それが今、この朝に出てきた。


「セイル様」


「何だ」


「一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「今、幸せですか」


 セイルが少し止まった。


 幸せ、という言葉を、この人に向けて使ったことがなかった。どんな顔をするか、少し気になっていた。


 セイルは少し考えた。すぐには答えなかった。でも、それは言葉を探しているからだと分かった。


「……怖い、という気持ちがまだある。また間違えることが」


「ええ」


「でも、その怖さより……」セイルが、少し間を置いた。「ここにいることの方が、大きい」


「ここに?」


「あなたの隣にいることの方が、大きい」


 ソフィアは、少し目を細めた。


 上手い言葉ではなかった。幸せです、と一言で言えればいいのかもしれない。でも、セイルはそういう人ではない。怖さも、隣にいることの大きさも、両方言う人だった。


 それが、今のセイルだった。


「私も、同じです」


「同じ?」


「怖さもある。でも、ここにいることの方が大きい」


 セイルが、ソフィアを見た。


 濃紺の瞳が、朝の光の中でいつもより柔らかく見えた。



 二人で庭を歩き続けた。


 一周して、また桃色の薔薇の前に戻ってきた。


 ソフィアは花に手を伸ばした。棘に気をつけながら、一輪だけ、そっと触れた。花びらが、朝露で少し湿っていた。柔らかかった。


 子どもの頃、アーデル家の庭で薔薇の棘で指を傷つけたことがあった。泣かずに唇を噛んでいた。隣に誰かがいた。夢で見た光景だった。


 あの夢の隣にいた人の顔が、今日初めて分かった気がした。


——こういう人だったのかもしれない。


 顔は見えなかった。でも、ただそこにいた。何も言わずに、隣にいた。


 今日の朝と、似ていた。


「どうした」


 セイルが聞いた。ソフィアが黙っていたから、気になったのだろう。


「昔見た夢のことを思い出していました」


「夢?」


「子どもの頃の夢。棘で指を傷つけて、隣に誰かがいた。顔が見えなかった夢」


「それが?」


「今日、少し分かった気がして」


 セイルは少し首を傾けた。


「何が分かった」


「隣にいた人が、どんな人かが」


 それだけ言った。説明しなかった。


 セイルは、それ以上聞かなかった。ただ、少し目を細めた。


 その目が、答えを知っているような顔をしていた。



 朝食の時刻になった。


 二人で庭から屋敷へ戻った。廊下を並んで歩いた。


 食堂に入ると、マリアがお茶を用意していた。カトリーナが、朝食の支度を終えたと告げた。


 いつもの朝だった。


 でも、今日の朝は、少し特別だった。


 庭で桃色の薔薇を見た朝。夢の隣にいた人が分かった朝。怖さより大きいものがあると、二人で言えた朝。


 食卓についた。


 向かいにセイルがいた。


 窓から、五月の光が差し込んでいた。薔薇の香りが、庭からかすかに漂ってきた。


 ソフィアはお茶を一口飲んだ。温かかった。


 今日も、いい日だと思った。



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