表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
57/57

第五十七話 もう一度、隣に【ソフィア視点】

第五十七話 もう一度、隣に【ソフィア視点】


 五月の終わり、エミリアが王都に来た。


 手紙で知らせてくれていた。ルカの仕事の用事があって、王都に寄ることになったと。ソフィアは返事に、ぜひ屋敷に来てほしいと書いた。


 エミリアが屋敷の門をくぐったとき、ソフィアは門まで出迎えた。


 エミリアは屋敷を見上げて、少し目を丸くした。


「大きいね」


「そうですか? 慣れてしまって」


「慣れちゃうんだ」エミリアが笑った。「さすが元侯爵夫人」


「今も侯爵夫人ですが」


「あ、そうか」


 二人で笑いながら、屋敷に入った。



 マリアがお茶を用意していた。


 エミリアはマリアを見て、少し目を細めた。


「マリアさん、顔色がいいね」


「ありがとうございます」


「あの町にいた頃より、なんか……楽そう」


 マリアは少し驚いた顔をしてから、静かに頷いた。


「ソフィア様のおかげです」


「私は何も」


「泣いていい、と言ってくださいました」


 エミリアがソフィアを見た。ソフィアは少し首を振った。説明は要らなかった。エミリアには、伝わる。



 昼前に、薔薇庭園に案内した。


 エミリアは庭に入って、しばらく黙っていた。


「……綺麗だね」


「ええ」


「ソフィアが植えたの?」


「嫁いで最初の春に。もう六年前になる」


 六年前。その言葉を口にして、ソフィアは少し驚いた。あの最初の春から、もう六年が経った。


「この庭、ソフィアの話の中によく出てきたよ」


「そうだったかしら」


「うん。王都から届く手紙には書いてなかったけど、こっちに来てから、よく話してた。薔薇を植えた話、水やりの話、セイル様が窓から見ていた話」


 ソフィアは少し笑った。


「覚えていたの」


「全部」


 エミリアらしかった。さらりと言うが、ちゃんと覚えている。


 二人で並んで、庭を見た。


「ソフィア、幸せ?」


 直球だった。エミリアはいつもそうだった。


 ソフィアは少し考えた。


「幸せ、という言葉が、以前より近くなった気がする」


「近くなった?」


「以前は、幸せかどうかを考える余裕がなかった。今は、考えられる。それが近くなったということかと」


 エミリアが、少し目を細めた。


「難しい言い方するね、相変わらず」


「簡単に言うと……幸せです」


 エミリアが笑った。声を上げて笑った。王都の屋敷の庭に、その笑い声が響いた。


 ソフィアも笑った。



 昼食は四人で食べた。


 ソフィアとエミリアとマリアと、それからセイルも途中から加わった。


 セイルはエミリアに会うのが二度目だった。最初はあの町で、薬草店で少し話した。今日は食卓を囲んだ。


 エミリアはセイルに対して、遠慮がなかった。


「ソフィアのこと、大切にしてください」


 唐突に言った。食事の途中だった。


 セイルは少し止まって、それからエミリアを見た。


「……肝に銘じる」


「言葉じゃなくて、行動で」


「分かっている」


 エミリアが満足そうに頷いた。ルカが黙ったまま、少し苦笑した。マリアが静かに目を伏せた。


 ソフィアは少し顔が熱くなったが、止める気にはなれなかった。


 エミリアに言ってもらえてよかった、と思っていたから。



 夕方、エミリアが帰る時刻になった。


 門まで見送った。


「また来る?」


 ソフィアが聞くと、エミリアが頷いた。


「来る。今度はもう少し長く」


「待っています」


「ソフィアも来てね。薔薇が終わって、秋になったら。ラベンダーが咲く頃」


「行きます。約束する」


 エミリアが、ソフィアをしっかりと見た。


「よかった。本当に、よかった」


 声が少し揺れた。


「何が」


「全部。ソフィアが、ちゃんとソフィアになってること」


 ソフィアは、その言葉を受け取った。


 ちゃんとソフィアになっている。


 そうか、とソフィアは思った。それが、この一年間のことだったのか。侯爵夫人の仮面を脱いで、ソフィアになること。ソフィアとして立つこと。


「エミリア」


「何?」


「あの町に来てよかった。あなたのところに来てよかった」


 エミリアは少し目を潤ませた。でも、泣かなかった。


「私もだよ。また来てね」


 馬車が動き出した。エミリアが窓から手を振った。ルカが静かに頭を下げた。


 ソフィアは馬車が見えなくなるまで、そこに立っていた。



 夜になった。


 屋敷が静かになった。マリアが夜の支度を終えて、おやすみなさいを言って引っ込んだ。カトリーナも、廊下の灯りを落とした。


 セイルがいた。


 書斎の前の廊下で、窓の外を見ていた。ソフィアが近づくと、振り返った。


「エミリアは、いい人だな」


「ええ。あなたのことを、ちゃんと見ていた」


「行動で、と言われた」


「聞こえていたのですか」


「聞こえていた」


 セイルは少し口の端を上げた。笑い、に近いものだった。


「肝に銘じている」


「知っています」


 二人で、窓の外を見た。


 王都の夜空だった。星は少ない。でも、月が出ていた。明るい、丸に近い月だった。


「セイル様」


「何だ」


「今夜は、名前で呼んでもらえますか」


 セイルが、ソフィアを見た。


 少しの間、黙っていた。


「……ソフィア」


 静かな声だった。廊下の暗がりに、その名前が落ちた。


 ソフィアは少し目を閉じた。


 五年間、一度も呼ばれなかった名前が、今は当たり前のように呼ばれる。当たり前になったことが、当たり前ではないことを、ソフィアはちゃんと知っていた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることか」


「言われることです」


 セイルは少し黙った。それから、また言った。


「ソフィア」


「はい」


「もう一度、隣にいてくれてありがとう」


 ソフィアは、その言葉を胸の中に置いた。


 ありがとう、という言葉が、この人の口から出た。隣にいてくれてありがとう、と。


——やっと、言えた。


 この人も、長い時間がかかった。でも、言えた。


「こちらこそ」


 ソフィアは言った。


「隣にいることを、選んでよかったと思っています」


 セイルは何も言わなかった。


 ただ、その濃紺の瞳が、月明かりの中で静かに輝いていた。



 廊下の窓から、庭が見えた。


 夜の薔薇庭園は、暗がりの中に沈んでいた。花の色は見えない。でも、かすかに香りがした。五月の夜の、深い薔薇の香りが。


 ソフィアはその香りを吸い込んだ。


 アーデル家の庭で初めて薔薇を好きになった、あの頃の記憶が、かすかに蘇った。棘で指を傷つけて、泣かずにいた。隣に誰かがいた。


 今、隣にいる。


 夢の続きが、ここにあった。



 二人は、しばらく窓の外を見ていた。


 急がなかった。埋めなくていい沈黙だった。


 月が、薔薇庭園をやわらかく照らしていた。


 風が通った。庭の薔薇が、夜の中で揺れた。


 見えなくても、そこにあることは分かった。


 香りが、また漂ってきた。


 ソフィアは目を閉じた。


 隣で、セイルが静かに息をしていた。


 それだけで、十分だった。


 五年間を経て、泣き終わった侯爵夫人の、静かで鮮やかな再生の物語は、今夜ここで、穏やかに幕を閉じた。


——おわり——



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ