第五十七話 もう一度、隣に【ソフィア視点】
第五十七話 もう一度、隣に【ソフィア視点】
五月の終わり、エミリアが王都に来た。
手紙で知らせてくれていた。ルカの仕事の用事があって、王都に寄ることになったと。ソフィアは返事に、ぜひ屋敷に来てほしいと書いた。
エミリアが屋敷の門をくぐったとき、ソフィアは門まで出迎えた。
エミリアは屋敷を見上げて、少し目を丸くした。
「大きいね」
「そうですか? 慣れてしまって」
「慣れちゃうんだ」エミリアが笑った。「さすが元侯爵夫人」
「今も侯爵夫人ですが」
「あ、そうか」
二人で笑いながら、屋敷に入った。
マリアがお茶を用意していた。
エミリアはマリアを見て、少し目を細めた。
「マリアさん、顔色がいいね」
「ありがとうございます」
「あの町にいた頃より、なんか……楽そう」
マリアは少し驚いた顔をしてから、静かに頷いた。
「ソフィア様のおかげです」
「私は何も」
「泣いていい、と言ってくださいました」
エミリアがソフィアを見た。ソフィアは少し首を振った。説明は要らなかった。エミリアには、伝わる。
昼前に、薔薇庭園に案内した。
エミリアは庭に入って、しばらく黙っていた。
「……綺麗だね」
「ええ」
「ソフィアが植えたの?」
「嫁いで最初の春に。もう六年前になる」
六年前。その言葉を口にして、ソフィアは少し驚いた。あの最初の春から、もう六年が経った。
「この庭、ソフィアの話の中によく出てきたよ」
「そうだったかしら」
「うん。王都から届く手紙には書いてなかったけど、こっちに来てから、よく話してた。薔薇を植えた話、水やりの話、セイル様が窓から見ていた話」
ソフィアは少し笑った。
「覚えていたの」
「全部」
エミリアらしかった。さらりと言うが、ちゃんと覚えている。
二人で並んで、庭を見た。
「ソフィア、幸せ?」
直球だった。エミリアはいつもそうだった。
ソフィアは少し考えた。
「幸せ、という言葉が、以前より近くなった気がする」
「近くなった?」
「以前は、幸せかどうかを考える余裕がなかった。今は、考えられる。それが近くなったということかと」
エミリアが、少し目を細めた。
「難しい言い方するね、相変わらず」
「簡単に言うと……幸せです」
エミリアが笑った。声を上げて笑った。王都の屋敷の庭に、その笑い声が響いた。
ソフィアも笑った。
昼食は四人で食べた。
ソフィアとエミリアとマリアと、それからセイルも途中から加わった。
セイルはエミリアに会うのが二度目だった。最初はあの町で、薬草店で少し話した。今日は食卓を囲んだ。
エミリアはセイルに対して、遠慮がなかった。
「ソフィアのこと、大切にしてください」
唐突に言った。食事の途中だった。
セイルは少し止まって、それからエミリアを見た。
「……肝に銘じる」
「言葉じゃなくて、行動で」
「分かっている」
エミリアが満足そうに頷いた。ルカが黙ったまま、少し苦笑した。マリアが静かに目を伏せた。
ソフィアは少し顔が熱くなったが、止める気にはなれなかった。
エミリアに言ってもらえてよかった、と思っていたから。
夕方、エミリアが帰る時刻になった。
門まで見送った。
「また来る?」
ソフィアが聞くと、エミリアが頷いた。
「来る。今度はもう少し長く」
「待っています」
「ソフィアも来てね。薔薇が終わって、秋になったら。ラベンダーが咲く頃」
「行きます。約束する」
エミリアが、ソフィアをしっかりと見た。
「よかった。本当に、よかった」
声が少し揺れた。
「何が」
「全部。ソフィアが、ちゃんとソフィアになってること」
ソフィアは、その言葉を受け取った。
ちゃんとソフィアになっている。
そうか、とソフィアは思った。それが、この一年間のことだったのか。侯爵夫人の仮面を脱いで、ソフィアになること。ソフィアとして立つこと。
「エミリア」
「何?」
「あの町に来てよかった。あなたのところに来てよかった」
エミリアは少し目を潤ませた。でも、泣かなかった。
「私もだよ。また来てね」
馬車が動き出した。エミリアが窓から手を振った。ルカが静かに頭を下げた。
ソフィアは馬車が見えなくなるまで、そこに立っていた。
夜になった。
屋敷が静かになった。マリアが夜の支度を終えて、おやすみなさいを言って引っ込んだ。カトリーナも、廊下の灯りを落とした。
セイルがいた。
書斎の前の廊下で、窓の外を見ていた。ソフィアが近づくと、振り返った。
「エミリアは、いい人だな」
「ええ。あなたのことを、ちゃんと見ていた」
「行動で、と言われた」
「聞こえていたのですか」
「聞こえていた」
セイルは少し口の端を上げた。笑い、に近いものだった。
「肝に銘じている」
「知っています」
二人で、窓の外を見た。
王都の夜空だった。星は少ない。でも、月が出ていた。明るい、丸に近い月だった。
「セイル様」
「何だ」
「今夜は、名前で呼んでもらえますか」
セイルが、ソフィアを見た。
少しの間、黙っていた。
「……ソフィア」
静かな声だった。廊下の暗がりに、その名前が落ちた。
ソフィアは少し目を閉じた。
五年間、一度も呼ばれなかった名前が、今は当たり前のように呼ばれる。当たり前になったことが、当たり前ではないことを、ソフィアはちゃんと知っていた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることか」
「言われることです」
セイルは少し黙った。それから、また言った。
「ソフィア」
「はい」
「もう一度、隣にいてくれてありがとう」
ソフィアは、その言葉を胸の中に置いた。
ありがとう、という言葉が、この人の口から出た。隣にいてくれてありがとう、と。
——やっと、言えた。
この人も、長い時間がかかった。でも、言えた。
「こちらこそ」
ソフィアは言った。
「隣にいることを、選んでよかったと思っています」
セイルは何も言わなかった。
ただ、その濃紺の瞳が、月明かりの中で静かに輝いていた。
廊下の窓から、庭が見えた。
夜の薔薇庭園は、暗がりの中に沈んでいた。花の色は見えない。でも、かすかに香りがした。五月の夜の、深い薔薇の香りが。
ソフィアはその香りを吸い込んだ。
アーデル家の庭で初めて薔薇を好きになった、あの頃の記憶が、かすかに蘇った。棘で指を傷つけて、泣かずにいた。隣に誰かがいた。
今、隣にいる。
夢の続きが、ここにあった。
二人は、しばらく窓の外を見ていた。
急がなかった。埋めなくていい沈黙だった。
月が、薔薇庭園をやわらかく照らしていた。
風が通った。庭の薔薇が、夜の中で揺れた。
見えなくても、そこにあることは分かった。
香りが、また漂ってきた。
ソフィアは目を閉じた。
隣で、セイルが静かに息をしていた。
それだけで、十分だった。
五年間を経て、泣き終わった侯爵夫人の、静かで鮮やかな再生の物語は、今夜ここで、穏やかに幕を閉じた。
——おわり——




