第五十五話 新しい侯爵夫人【ソフィア視点】
第五十五話 新しい侯爵夫人【ソフィア視点】
署名から一週間が経った。
ソフィアは、屋敷の中を少しずつ歩き直した。
歩き直す、というのは大げさかもしれない。でも、同じ廊下を歩いても、以前とは受け取り方が違った。足の裏に、石畳の感触がちゃんとある。天井の高さに、気づく。窓から見える庭の色に、目が止まる。
以前は、全てを素通りしていた。
完璧な侯爵夫人として機能することに集中していたから、景色が目に入らなかった。今は違う。同じ場所が、新しく見える。
ある朝、ソフィアは屋敷の管理について、カトリーナと話し合った。
以前は、全てソフィアが決めていた。調度品の配置も、使用人の仕事の割り振りも、来客の対応も。完璧にこなすことが、自分の役割だと思っていた。
今日は違う話し合いをした。
「カトリーナは、どうしたいですか」
カトリーナが、少し目を瞬かせた。
「私が、ですか」
「ええ。長く仕えてくれている。屋敷のことは、私より知っていることも多い。一緒に決めたい」
カトリーナはしばらく黙っていた。それから、少しずつ話し始めた。ずっと思っていたが言えなかったことが、いくつかあったらしかった。北側の廊下の照明が暗いこと。厨房の動線が効率的でないこと。使用人の休みの取り方が偏っていること。
ソフィアは全部、聞いた。
話し合いは、思ったより長くなった。でも、終わった後、カトリーナが少し晴れ晴れとした顔をしていた。
「……ありがとうございます、奥様」
「こちらこそ。教えてくれてよかった」
カトリーナが、また深く頭を下げた。その肩が、エミリアの町を訪ねてきたときより、少し軽そうだった。
昼前に、セイルが書斎から出てきた。
「カトリーナと話していたな」
「ええ。屋敷のことをいくつか」
「どうだった」
「思っていたより、たくさんのことを教えてもらった。長く仕えている人の目には、私には見えていないものがある」
セイルは少し頷いた。
「俺も、陛下に同じことを言われたことがある。長く仕えている者の目を、大切にしろと」
「国王陛下が?」
「若い頃に。当時は、自分でやれると思っていたから、半分しか聞いていなかった」
ソフィアは少し笑った。
「今は?」
「今は、聞ける」
短い答えだった。でも、その短さが今のセイルらしかった。言葉が少ないまま、でも中身が変わっている。
午後、薬草を扱う王都の店に行った。
エミリアの町の薬草店より、品揃えが豊富だった。ずらりと並んだ棚を見ながら、ソフィアは少し興奮した。エミリアの店で覚えた名前が、次々と目に入った。
店主は四十代の女性だった。ソフィアが薬草について話すと、少し目を細めた。
「よくご存知で。貴族のお方で、薬草に詳しい方は珍しい」
「少し前に、薬草店で働いていました」
「そうでしたか」
店主は驚いた様子だったが、それ以上聞かなかった。ソフィアも説明しなかった。
いくつかの薬草を買った。カモミール、ラベンダー、ペパーミント。エミリアの店で覚えたものたちだった。
帰り道、小さな包みを抱えながら、ソフィアは思った。
——これが、新しい侯爵夫人だ。
薔薇庭園を持って、薬草を買いに行って、使用人と話し合いをする侯爵夫人。完璧でなくていい。全ての招待状に出席しなくていい。ただ、自分が好きなものを持って、自分の声で話せる人間でいる。
それが、取り戻した名前の使い方だった。
夕方、屋敷に戻ると、庭師がいた。
薔薇の手入れをしていた。盛りは過ぎたが、まだいくつか咲いていた。
「今年はよく咲きましたね」
庭師が言った。嬉しそうな顔だった。
「ええ。よく手入れをしてくれたから」
「旦那様が、水を切らすなと言ってくださいましたから」
ソフィアは頷いた。
「来年も、よろしくお願いします」
「もちろんです。来年はもっと、たくさん咲かせましょう」
庭師が笑った。ソフィアも笑った。
来年も、この庭に薔薇が咲く。
その当たり前のことが、今日は特別に思えた。
来年も、ここにいる。この庭を見る。隣に誰かがいる。
ソフィアは庭を見渡した。
赤と桃色と白の薔薇が、夕暮れの光の中で、最後の色を輝かせていた。
夜、エミリアに手紙を書いた。
王都の薬草店に行ったこと。カトリーナと話し合いをしたこと。来年も薔薇が咲くこと。
最後に一行付け加えた。
——ここが、新しい居場所になってきました。
封をして、マリアに渡した。
マリアは受け取って、少し目を細めた。
「エミリア様、喜ばれますね」
「そうね。返事が楽しみ」
マリアが、静かに笑った。
屋敷の廊下に、夜の静けさが広がっていた。以前の静けさとは違う静けさだった。重くない。閉じていない。ただ、穏やかな静けさだった。
ソフィアはその静けさの中を歩いて、自分の部屋へ戻った。




