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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第五十四話 取り戻した名前【ソフィア視点】

第五十四話 取り戻した名前【ソフィア視点】


 ある朝、セイルが書斎から出てきて、食卓に書類を一枚置いた。


 ソフィアは朝食の後で、お茶を飲んでいた。置かれた書類を見た。


「何ですか」


「読んでほしい」


 手に取った。法的な書類だった。几帳面な字で、条文が並んでいる。読み進めるうちに、内容が分かってきた。


 離縁状を、正式に無効とする手続きの書類だった。


 ソフィアは少し手が止まった。


「これは」


「離縁状は、ソフィアが署名したものだ。それを無効にするためには、ソフィアの同意が要る。強制はしない。ただ、俺はこうしたいと思っている」


 セイルは食卓の向かいに座った。


「急がなくていい。読んで、考えてから答えてくれ」



 ソフィアは書類をもう一度、丁寧に読んだ。


 離縁状が署名されたのは、あの朝だった。セイルが廊下で名前を叫んだ、あの朝。ソフィアにとって、あの署名は終わりではなかった。始まりだった。自分のために歩き出す、始まりだった。


 離縁状を無効にすることは、あの朝をなかったことにすることではない。


 あの朝は確かにあった。あの署名は確かにあった。そこから始まって、エミリアの町があって、マリアとの夜があって、薔薇庭園の約束があった。それは全部、本当のことだった。


 書類一枚で、なかったことにはならない。


「一つだけ確かめさせてください」


「何でも」


「これは、ヴァルト侯爵夫人に戻ることを意味しますか」


 セイルは少し間を置いた。


「法的には、そうなる。だが——」


「だが?」


「俺が望んでいるのは、肩書きではない。ソフィアが、ヴァルト侯爵夫人として戻ることではなく、ソフィアとして、ここにいてくれることだ」


 ソフィアは、その言葉を受け取った。


 侯爵夫人としてではなく、ソフィアとして。


 第四十四話で言われた言葉と、同じだった。あのとき受け取って、今日また受け取った。二度受け取ったことで、その言葉の重さが確かになった。


「もう一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「この書類に署名したら、私はまた侯爵夫人になる。社交の義務も、屋敷の管理も、戻ってくる。それを、私がどう扱うかについて、あなたはどう考えていますか」


 セイルは少し考えた。


「あなたが決めることだ。全部出席しなくていい。屋敷の管理も、あなたがしたいようにすればいい。俺が決めることではない」


「以前は、そういう話をしたことがなかった」


「以前は、話し合うということをしていなかった」


 ソフィアは少し目を細めた。


 この人は変わった。本当に変わった。言葉が、今日も本当のことだと分かった。



 ソフィアは書類を置いて、少し考えた。


 考えることは、一つだけだった。


 この名前を、取り戻したいか。


 ヴァルト侯爵夫人という名前を。五年間、仮面と一緒にかぶっていた名前を。


——いや、違う。


 ソフィアは、少し考え直した。


 ヴァルト侯爵夫人という名前は、仮面ではない。仮面だったのは、その名前の使い方だった。完璧でなければならない、という使い方が、仮面だった。


 名前そのものは、悪くない。


 ソフィア・ヴァルト。


 その名前を、今度は仮面なしで持てるなら、悪くない。


 取り戻したいというより——新しく持ちたい、という感じだった。以前とは違う形で。自分のために。


「署名します」


 ソフィアは言った。


「考えたか」


「ええ。十分に」


 セイルが、羽根ペンを出した。インクをつけて、ソフィアに渡した。


 ソフィアはペンを受け取った。書類の署名欄を見た。


 ソフィア・ヴァルト、と書く欄だった。


 ゆっくりと、書いた。


 以前の署名とは、少し字が違った気がした。同じ名前なのに、少し違う。力の入り方が違うのかもしれない。怖れから書いた字と、自分で選んで書いた字は、同じ名前でも違うものになる。


 書き終えた。


 ペンを置いた。


 セイルが書類を受け取って、少し見てから、静かに言った。


「ありがとう」


「こちらこそ」


「何が」


「こういう形で聞いてくれたことが」


 強制しなかった。急かさなかった。書類一枚を食卓に置いて、読んで考えてから答えてくれと言った。それが、今のセイルだった。


 セイルは少し目を伏せた。それから、顔を上げた。


「ソフィア」


「はい」


「これから、よろしく頼む」


 ソフィアは少し笑った。


「こちらこそ」


 窓から、春の光が差し込んでいた。


 書類の上のソフィアの署名が、その光を受けて、白く輝いた。


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