第五十三話 アーデル家の決断【ソフィア視点】
第五十三話 アーデル家の決断【ソフィア視点】
父から手紙が来たのは、王都に戻って十日後だった。
エミリアの町で受け取った手紙より、ずっと長かった。几帳面な文字が、便箋二枚にわたって書かれていた。
ソフィアは書斎の窓際に座って、ゆっくりと読んだ。
最初の半分は、近況だった。
アーデル伯爵家の屋敷の庭に、今年も薔薇が咲いたこと。母が少し体調を崩したが、今は回復していること。弟が家の仕事を手伝い始めたこと。
そして後半に、本題が来た。
ソフィアが王都に戻ったことは、王都の知人から聞いて知っていること。自分の意志で戻ったことも。それを聞いて、安堵したこと。
それから、こう続いていた。
父として、一つだけ伝えておきたいことがある。お前がヴァルト侯爵家に嫁いだのは、アーデル家のためでもあった。その重さを、父は軽く考えていなかった。お前が五年間、完璧な侯爵夫人を演じていたことは、アーデル家のためでもあったと思っている。だから、離縁を選んだとき、父は責めなかった。お前はアーデル家のために十分すぎるほどのことをした。
今、お前がヴァルト侯爵家に戻ったことについて、父は一つだけ確かめたい。それはお前自身が選んだことか。アーデル家のためでも、周囲の目のためでもなく、ソフィア、お前自身のために選んだことか。
そうであれば、父は何も言わない。ただ、お前の幸せを願う。
ソフィアは手紙を、もう一度読んだ。
目が熱くなった。
泣くまいと思ったが、今日は止めなかった。父の手紙で泣くことは、恥ずかしくない。
一粒だけ、涙が落ちた。便箋の端に、小さな染みができた。
——お父様。
五年間、実家からの手紙に当たり障りのないことしか書かなかった。心配させまいとして。アーデル家の娘として、完璧でいようとして。
でも、父は気づいていた。ずっと、気にしていた。
そして今、一番大事なことを聞いてくれた。
お前自身のために選んだことか、と。
その日の夕方、返事を書いた。
長い手紙にしようと思っていたが、書き始めると、短くなった。伝えたいことが、一つに絞られたからだ。
父上へ。
自分のために選びました。アーデル家のためでも、周囲の目のためでもありません。私がそうしたかったから、そうしました。
五年間のことを、今は後悔していません。あの時間があったから、今の私がいます。ただ、もっと早く自分のために動けばよかったとは思います。その分を、これから取り戻すつもりです。
母上のご回復をお祈りしています。弟によろしく伝えてください。
いつか、アーデル家の薔薇を見に帰ります。
ソフィアより。
書き終えて、読み返した。
これでいい、と思った。飾りがなかった。本当のことだけが書いてあった。
封をしてから、セイルに話した。
夕食の食卓で、父から手紙が来たこと、返事を書いたことを告げた。内容は詳しく話さなかった。でも、一つだけ言った。
「父が、自分のために選んだことかと聞いてくれました」
「何と答えた」
「そうだと」
セイルは少しの間、黙った。
「……アーデル伯爵に、礼を言いたい」
「礼を?」
「そういうことを聞ける父親のもとで育ったから、あなたはああいう人間になった。その父親に、礼を言いたい」
ソフィアは少し驚いた。
セイルが、こういうことを言う人になった。
「……手紙に書いておきます」
「直接言いたい。いつか、伺う機会があれば」
「あります」
ソフィアは、はっきりと言った。
「いつか、一緒に帰りましょう。アーデル家の薔薇を見に」
セイルが、ソフィアを見た。
「……ああ」
短く、でも確かな返事だった。
夜、ソフィアは窓から外を見た。
王都の夜空は、星が少なかった。灯りが多いせいだ。エミリアの町の夜空とは違う。
でも、どこかに同じ星がある。
アーデル家の屋敷でも、父が今夜どこかの窓から、同じ空を見ているかもしれない。
——いつか、帰る。
薔薇を見に。父と母と弟のいる場所へ。今度は一人ではなく、隣に誰かを連れて。
その日を、楽しみにしていいと、今日初めて思った。
窓の外の夜空が、静かに広がっていた。




