第五十二話 マリアの涙【ソフィア視点】
第五十二話 マリアの涙【ソフィア視点】
その日の夜、ソフィアはマリアを呼んだ。
特別な用事があったわけではない。ただ、話したかった。エミリアの町を出てから、二人でゆっくり話す時間が、あまりなかった気がしていた。
「少し、いい?」
「はい」
マリアは部屋に入って、いつものように入口近くに立った。ソフィアは椅子を引いて、向かいに示した。
「座って」
マリアは一瞬躊躇した。エミリアの家では当たり前になっていたことが、屋敷に戻ると少し遠くなる。でも、ソフィアが示したから、静かに腰を下ろした。
「聞きたいことがある」
「はい」
「マリアは今、どんな気持ち?」
マリアが、少し目を瞬かせた。
「私の気持ち、ですか」
「ええ。いつも私のことを気にかけてくれている。でも、マリア自身のことを、私はあまり聞いていなかったと思って」
マリアは少しの間、黙っていた。
五年間、ソフィアのそばにいた。ソフィアの感情を受け取り続けた。でも、自分の感情を聞かれたことは、ほとんどなかった。そのことを、マリアは表情に出さなかった。でも今、少し戸惑っているのが分かった。
「……正直に言っていいですか」
「もちろん」
「嬉しいです」
「何が?」
「全部が」
短い答えだった。でも、マリアの目が少し潤んでいた。
「もう少し、聞かせてもらえる?」
マリアは少し息を吸った。それから、ゆっくりと続けた。
「ソフィア様が王都を出るとき、私はついていくことしかできなかった。力になれているのか、重荷になっていないか、ずっと気になっていました」
「重荷なんかじゃなかった」
「エミリアの町で、ソフィア様が少しずつ変わっていくのを見ていました。笑顔が増えて、言葉が柔らかくなって、朝の顔が違ってきて。それが……嬉しくて」
マリアの声が、少し揺れた。
「でも、嬉しいと言っていいのか分からなかった。ソフィア様が辛い思いをして出てきた場所に、喜んでいいのかと」
「いいに決まっている」
ソフィアは、はっきりと言った。
「あなたが喜んでくれることが、私も嬉しい。マリアが笑っていてくれた方が、私は楽だから」
マリアは下を向いた。
しばらく、沈黙があった。
それから、小さな音がした。
マリアが、泣いていた。
声を出さない泣き方だった。五年間、ソフィアの隣で感情を抑えてきた人の泣き方だった。肩が、かすかに震えていた。
ソフィアは何も言わなかった。
立ち上がって、マリアのそばに行った。隣に座って、その肩にそっと手を置いた。
マリアがまた、少し震えた。
「泣いていい」
ソフィアが静かに言った。
「ここには、泣かないことで守らなければならない立場はないから」
自分がエミリアの町で学んだことを、今夜マリアに返した。
マリアは、それでも声を出さなかった。でも、涙が手の甲に落ちた。一粒、また一粒。
ソフィアは肩に置いた手を、そのままにしていた。
しばらくして、マリアが顔を上げた。目が赤かった。少し恥ずかしそうな顔をしていた。
「……失礼しました」
「失礼なんかじゃない」
「五年間、一度も泣かなかったのに」
「私の前では、泣いていいの。これからも」
マリアが、また少し目を潤ませた。今度は、泣かなかった。ただ、深く頷いた。
「ソフィア様」
「何?」
「五年間、そばにいられてよかったです」
ソフィアは少し目を細めた。
「私もよ。マリアがいなかったら、あの五年間は違うものになっていた」
「……そんなことは」
「本当のことだから、言った」
マリアは何も言わなかった。でも、その顔が、今夜一番柔らかくなった。
しばらく二人でいた。
窓から月が見えた。王都の月は、エミリアの町より少し小さく見えた。でも、同じ月だった。
ソフィアはその月を見ながら、思った。
五年間、マリアはソフィアの仮面の裏を知っていた。泣かないと誓った夜も、廊下で飲み込んだ感情も、庭で一人だった朝も。全部、見ていた。
その人が今夜、泣いた。
それが、この五年間の重さだったと思った。ソフィアだけが重さを抱えていたのではなかった。マリアも、ずっと一緒に抱えていた。
——ありがとう。
口に出さずに、もう一度思った。
マリアはもう泣いていなかった。静かに、月を見ていた。
二人で、しばらく月を見ていた。
言葉は要らなかった。




