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「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」  作者: マサキ


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第五話 揺れる午後

第五話 揺れる午後


 あれから三日が過ぎた。


 セイルからの返事は、まだなかった。


 離縁状はテーブルの上に置いたままだ。書斎に入ったかどうかも、ソフィアには確認する術がない。ただ、使用人の一人が「旦那様は昨夜書斎で夜遅くまで灯りをつけておられました」と、さりげなく教えてくれた。それだけで十分だった。


 セイルは、読んでいる。


 それでも何も言ってこないということは、まだ答えが出ていないのか。それとも、どう向き合えばいいかわからないのか。どちらにしても、ソフィアは待つつもりだった。急かすつもりも、もう一度話し合うつもりも、今はなかった。


 言うべきことは、あの夜に全部言った。


 午後になって、ソフィアは珍しく一人で薔薇庭園に出た。


 曇りがちだった空が、今日は薄く晴れている。五月の風は柔らかく、庭の薔薇が一斉に揺れた。赤、白、淡いピンク。嫁いだ最初の春に自ら選んだ花たちが、今年も変わらず美しく咲いている。


 石造りのベンチに腰を下ろし、ソフィアは静かに庭を見渡した。


 この庭が好きだった。屋敷の中で唯一、仮面を外しても誰にも見られない場所だったから。使用人たちはソフィアが庭に出ると、自然と距離を置いてくれる。マリアも今日は部屋の中で待っている。


 一人でいられる、数少ない時間だった。


 薔薇の香りが、風に乗って漂ってくる。目を閉じると、嫁いだばかりの頃のことが浮かんだ。


 あの頃のソフィアは、まだ希望を持っていた。


 政略結婚だとわかっていても、セイルのことを嫌いではなかった。むしろ、誠実そうな人だと思っていた。口数は少ないが、約束は守る。感情的になることなく、物事を冷静に判断する。そういう男だと、婚約の頃からわかっていた。


 だからこそ、信じていた。


 時間をかければ、きっと心も近づく。夫婦というのはそういうものだと、母から教わっていた。焦らず、諦めず、隣に立ち続けることが大切だと。


 その言葉を信じて、五年間、隣に立ち続けた。


 結果は、ご覧の通りだった。


 目を開けると、薔薇が風に揺れていた。その様子がひどく穏やかで、ソフィアは少し気が抜けた。怒りも悲しみも、この庭の前では薄れていく気がした。


 足音が聞こえたのは、そのときだった。


 石畳を踏む、聞き慣れた足音。ソフィアは振り返らなかった。振り返らなくても、誰かはわかった。


 セイルが、庭に来ることなど今まで一度もなかった。


「……ここにいたのか。探していた」


 低い声が、背後から聞こえた。ソフィアは正面を向いたまま、静かに答えた。


「ええ。お天気がよかったので。何かご用でしたか」


 足音が近づき、ソフィアの隣に止まった。しかしセイルは座らなかった。ただ立ったまま、薔薇庭園を見ていた。


 しばらく、沈黙が続いた。


 風が吹くたびに薔薇が揺れ、花びらが一枚、二枚と石畳に落ちた。遠くで鳥の声がした。二人の間には、言葉の代わりに静寂だけがあった。


「この庭は、お前が作ったのか」


 唐突な問いだった。ソフィアは少し驚いたが、表情には出さなかった。


「ええ。嫁いで最初の春に。もともとは何もない石畳だったので、花を植えさせていただきました」


「そうか」


 またしばらく、沈黙が続いた。


 セイルが庭のことを何も知らなかったのは、当然だった。この五年間、ここに来たことがないのだから。ソフィアが丹精込めて育てた薔薇も、庭の隅に置いた小さな噴水も、おそらく今日初めて目にしたのだろう。


 それが悲しいというより、もはや滑稽だった。


「……署名のことだが」


 セイルが、ようやく口を開いた。ソフィアは静かに待った。


「もう少し、時間をくれないか」


「どのくらいですか」


「……わからない。ただ、まだ整理がついていない」


 ソフィアは少し考えてから、答えた。


「一週間、お待ちします。それで返事がなければ、王都の書士に相談します」


 セイルが、微かに息を呑む気配がした。


「……そこまで、決めているのか」


「五年間、考える時間はたっぷりありましたから」


 静かに、しかしはっきりと言った。責める色はない。ただ、事実だった。


 セイルはそれ以上何も言わなかった。ソフィアも言わなかった。二人は並んで薔薇庭園を見ていた。夫婦として同じ景色を見る、おそらく最初で最後の時間だった。


 風がまた吹いて、花びらが舞った。


 ソフィアはそっと目を閉じた。この庭の香りを、記憶に刻みつけるように。ここを出たら、もう二度と嗅ぐことのない香りだから。


「……綺麗な庭だな」


 セイルが、ぽつりと言った。


 ソフィアは目を開けなかった。


「ありがとうございます」


 それだけ答えて、また静かになった。


 綺麗な庭だと、五年間で初めて言われた。


 嬉しくはなかった。ただ、少しだけ、胸の奥がじんとした。遅すぎる言葉というのは、優しさではなく、痛みになる。そのことを、ソフィアは今日また一つ、学んだ気がした。


 二人は最後まで、並んで庭を見ていた。


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