第四話 レイナという影
第四話 レイナという影
翌朝、セイルからの返事はなかった。
ソフィアは朝食を一人で済ませ、午前中は刺繍をして過ごした。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。針を刺し、糸を引く。その単純な繰り返しが、今のソフィアにはちょうどよかった。
マリアが紅茶のお代わりを持ってきたとき、ソフィアはふと手を止めた。
「マリア、昨夜のことは誰にも言わないでちょうだい」
「……はい、奥様。もとよりそのつもりでございます」
「ありがとう」
マリアは何も聞かなかった。ただ、いつもより少しだけ丁寧にカップを置いて、静かに下がった。その背中を見ながら、ソフィアは再び針を動かした。
セイルが署名をするかどうか、今は考えないことにした。するかしないかは彼の自由だ。ただソフィアの決意は変わらない。
問題は、時間だった。
レイナがいつまで王都に滞在するのか、ソフィアは知らなかった。外交の随行として来ているのであれば、いずれ隣国へ戻るはずだ。しかしセイルの様子を見る限り、二人の関係は公的なものだけではない気がした。
初めてレイナの存在を意識したのは、あの春の夜会からではなかった。
レイナが王都に現れてしばらく経った頃から、ソフィアはセイルの纏う空気が少しずつ変わっていくのを感じていた。帰宅したときの表情に、見覚えのない柔らかさが混じるようになった。それまでの五年間、夫婦の間にはずっと静かな距離があった。愛情というより、互いへの無関心に近い距離が。それがレイナの登場を境に、別の種類の遠さへと変わっていった。
最初は気のせいだと思った。
仕事がうまくいっているのかもしれない。国王陛下に認められることがあったのかもしれない。そう解釈しようとした。しかしある夜、レイナと頻繁に顔を合わせるようになって間もない頃、セイルの外套に見慣れない香水の香りが残っていた。華やかで、甘く、ソフィアが決して使わない類の香り。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
問いただすことはしなかった。証拠もなく、感情的に詰め寄ることが、ソフィアにはできなかった。伯爵令嬢として育てられた矜持が、みっともない姿を夫に見せることを許さなかった。
だから飲み込んだ。
その夜も、翌朝も、何事もなかったように微笑んだ。完璧な侯爵夫人として、朝食の席に着いた。セイルは普段通りだった。いや、普段通りというより、ソフィアを見ていなかった。
それがずっと、続いていた。
刺繍の針が、少しだけ歪んだ方向に刺さった。ソフィアは静かにそれを抜き、やり直した。感情が手元に出るのは、珍しいことだった。
——落ち着きなさい。もう終わることなのだから。
自分に言い聞かせながら、窓の外に目をやった。今日は曇っていて、薔薇庭園の色が心なしか暗く見えた。
レイナのことを、憎んでいるかと問われれば、正直なところよくわからなかった。
確かに、あの女が現れてからソフィアの結婚は終わりへと加速した。しかし冷静に考えれば、レイナはただそこにいただけだ。振り向いたのはセイルの意志だ。引き寄せられたのもセイルだ。レイナを憎むのは、筋違いかもしれない。
それでも。
あの夜会でのレイナの微笑みを思い出すと、胸の奥がざわりとした。あの目の奥にあった確信。私はあなたの夫を手に入れた、とでも言いたげな静かな光。あれは気のせいではなかったはずだ。
レイナは知っていてやっている。
そういう女だと、ソフィアの勘が告げていた。社交的な笑顔の裏に、計算がある。誰にでも愛想よく振る舞いながら、欲しいものだけをしっかりと手に入れる。そういう生き方を、あの女は迷いなくできるのだろう。
羨ましいとは思わなかった。
ただ、疲れた。そういう戦いを五年間、一人で続けてきたことに。
昼過ぎになって、マリアが小さな声で告げた。
「奥様、旦那様から伝言がございます。今夜は帰りが遅くなると」
ソフィアは刺繍から目を上げなかった。
「そう。わかったわ」
「……お夕食は、いかがなさいますか」
「一人でいただくわ。いつも通りにしてちょうだい」
マリアがまた、何も言わずに下がった。その足音が遠ざかってから、ソフィアはようやく刺繍の手を止めた。
今夜も、帰りが遅い。
離縁状を渡した翌日に、それが答えなのかもしれなかった。向き合うことから逃げている。あるいは、どこかへ気持ちの整理をしに行っている。どちらにしても、ソフィアには関係のないことだった。
窓の外で、風が薔薇の枝を揺らした。曇り空の下でも、花だけは鮮やかに咲いている。どんな天気の日でも、薔薇は咲く。それが少しだけ、ソフィアには眩しかった。
——私も、そうでなければ。
この屋敷を出たあと、どこへ行くかはまだ決めていなかった。実家に戻るのが自然だが、両親の心配そうな顔を想像すると、少し気が重い。しばらくは一人で静かに過ごせる場所がいい。王都から離れた、誰も自分を知らない場所で、ただ穏やかに息をしたかった。
夕暮れが近づく頃、ソフィアは刺繍を片付けた。
完成した図案は、小さな薔薇の花だった。赤でも白でもなく、淡い紫の糸で刺した、名もない薔薇。誰かに贈るつもりはなかった。ただ、手を動かしていたかっただけだ。
それでも、思いのほか綺麗にできた。
ソフィアはそれをそっと布で包み、引き出しの奥にしまった。この屋敷を出るとき、これだけは持っていこうと思いながら。




