第三話 完璧な侯爵夫人の仮面
第三話 完璧な侯爵夫人の仮面
セイルが屋敷に戻ったのは、夕刻を少し過ぎた頃だった。
ソフィアは書斎の前の廊下で、静かに待っていた。使用人たちはすでに夕食の準備に取りかかっており、この時間この場所に人の気配はない。二人きりで話せる、数少ない機会だった。
馬車の音が止み、玄関の扉が開く音がした。しばらくして、廊下の奥からセイルの足音が近づいてきた。
背が高く、肩幅のある体格。濃紺の軍服に似た外套をまとったセイルは、相変わらず端整な顔立ちをしていた。しかしその顔が、ソフィアの姿を認めた瞬間、わずかに強張った。
「……ソフィア。珍しいな、こんな場所で」
「少しお時間をいただけますか。書斎で、二人でお話ししたいことがあります」
セイルの目が、一瞬だけ揺れた。何かを察したのかもしれない。それでも彼は短く頷き、書斎の扉を開けた。
部屋に入ると、セイルは窓際に立った。ソフィアは扉の近くで足を止め、静かに向き合った。暖炉の火が、二人の間に揺れている。
「話とは、何だ」
声は平静だった。しかし目が、微妙に泳いでいた。
ソフィアは懐から一枚の書状を取り出した。丁寧に折り畳まれた、それほど厚くない紙。しかしその重さは、五年分の時間に値した。
「離縁状です。すでに私の署名は入っております。あとはセイル様のお名前をいただければ、手続きは完了します」
書斎に、静寂が落ちた。
暖炉の薪が、小さく爆ぜた。それ以外、何の音もなかった。セイルは動かなかった。ソフィアも動かなかった。ただ二人の間に、折り畳まれた一枚の紙が、静かに存在していた。
「……何を、言っている」
セイルの声は、低かった。
「聞こえましたでしょうか。離縁状です。ヴァルト侯爵家とアーデル伯爵家の婚姻を、正式に解消する書状です」
「なぜ」
たった一言だった。責めるでもなく、怒るでもなく、ただ呆然としたような一言。ソフィアはそれを聞いて、かえって胸の奥が静かになるのを感じた。
——やはり、気づいていなかったのだ。
五年間、何も見えていなかった。妻がどれほど傷ついていたか。どれほど待ち続けていたか。どれほど限界だったか。何一つ、見えていなかった。
それが悲しいというより、もう、ただ疲れた。
「理由をお聞きになりたいですか」
ソフィアは静かに続けた。
「五年間、私はこの屋敷でアーデル伯爵家の娘として恥ずかしくない侯爵夫人を演じてまいりました。社交界での立ち居振る舞い、領地の管理、来客へのもてなし、すべて一人でこなしてきました。それは苦ではありませんでした。妻としての務めだと思っておりましたから」
セイルは何も言わなかった。
「ただ一つだけ、どうしても慣れないことがありました。セイル様が、私を見てくださらないことです」
言葉は、穏やかだった。責める色も、怒りの色も、意図してそぎ落としていた。ただ事実を、静かに並べていた。
「夫婦として同じ屋根の下に暮らしながら、目が合うことも、言葉を交わすことも、ほとんどありませんでした。私の名前を、セイル様が声に出してくださったのが最後いつだったか、もう思い出せません」
セイルの表情が、初めて揺らいだ。
何かを言おうとして、口を開き、閉じた。その様子を見て、ソフィアは小さく首を振った。
「弁解はいりません。責めているわけでもありません。ただ、私はもう限界なのです」
離縁状を、テーブルの上に置いた。
「レイナ様のことは、直接の理由ではありません」
それは半分だけ、本当のことだった。レイナがいなくても、この結婚はとうに壊れていた。彼女はただ、最後の一押しをしただけだ。けれどその一押しがなければ、ソフィアはまだ迷っていたかもしれない。その意味では、レイナに感謝すべきなのかもしれなかった。
「私が王都を出るまでに、署名をいただければ十分です。アーデル伯爵家には既に話を通してあります。ご迷惑はおかけしません」
「待て」
セイルが、初めて声を荒げた。
「待ってくれ、ソフィア。話が急すぎる。私はまだ何も——」
「五年間、お待ちしておりました」
ソフィアは静かに遮った。声は震えなかった。泣きたいとも思わなかった。ただ、はっきりと、言葉を置いた。
「五年間、セイル様がいつか振り向いてくださると信じて、待ち続けておりました。ですからどうか、急とはおっしゃらないでください」
セイルは、黙った。
反論できなかったのだろう。あるいは、何も言葉が出てこなかったのかもしれない。ただ、立ち尽くしていた。
ソフィアはもう一度、テーブルの上の離縁状に目を落とした。それからセイルに向かって、深く、丁寧に礼をした。五年間、侯爵夫人として身につけた、完璧な礼だった。
「今夜はゆっくりお休みください。お返事は、明日で構いません」
そう言って、ソフィアは書斎を出た。
廊下に出た瞬間、膝が少し震えた。深呼吸を一つして、背筋を伸ばす。泣かない。ここでは泣かない。
自室に戻るまでの長い廊下を、ソフィアは一人で歩いた。窓の外はすっかり暗くなっていた。薔薇庭園は夜の闇の中に沈み、その輪郭だけがかすかに見えた。
五年間、あの庭に水をやり続けた。
薔薇は今年も美しく咲いたが、二人でその庭を歩くことは、ついに一度もなかった。
——それでいい。
ソフィアは前を向いたまま、静かに歩き続けた。




